義理堅い神様

 大神様は我々に真人間とはかくあるものということを実行して示され、それを教えとして残された。人間の徳目をすべて示されたと考えられる。徳目の一つが「義理堅い」である。自分が人から受けた親切・恩義を忘れず、それにちゃんと報いることである。
例1:大神様は晩年(紀元20年-22年)以前に親しくしていた近隣の人々(同志であるなしにかかわらず)を呼んで「お別れ」をされ、礼を尽くされた。
例2:大神様は自分にゆかりのある知人や同志が入院していると良くお見舞いに行かれた。これは海外ご巡教中にも実行された。お体が極限まで弱られていた紀元20年のアメリカでもそうだった。紀元18年の交通事故も同志(河村)のお見舞いに行かれる途上のことであった。ウィルソン・ホノルル市長は紀元7年大神様ハワイ巡教時、大神様に良く協力した。紀元16年大神様がホノルルに見えた時、彼は入院中であったが、大神様はお見舞いに行かれた。

例3:大神様のご聖業に協力した人々を救われた。これは数え切れない程多数ある。一例が町田夫人。戦争末期の田布施町長夫人である。戦犯で逮捕される直前の岸信介氏に面会されるとき同行したり、徳山市長本城家を訪ねる時同行したりした。彼女は結核痔瘻がひどかったが、大神様は、7日続く出血と下痢で「結核菌」を出してしまい完治させた。その19年後に寿命が尽きるまで健康で暮らした。
別例が「シカゴの小川夫人」である。大神様が紀元9年アメリカ大陸布教に行かれた時、シカゴで出迎えたのは小川夫人だけであった。彼女は60歳ぐらいの未亡人で、ハワイの同志山田夫人の妹であった。姉から頼まれて大神様一行(3名)の世話をされた。彼女は大きなビルのオーナーであり、子供夫婦と共に暮らしており、賃貸料で富裕な暮らしをしていた。大神様はそこに一部屋借りて、布教に回られた。小川夫人とその一家には信仰心は少しもなく、大神様のお話に少しも耳を傾けなかった。約一月後、政光夫人など真剣に神教を聞くグループができ、彼らの招きで、内村宅に移られた。1年後大神様が再度シカゴに来られた。日本同志の大神様宛の手紙が沢山小川宅に届いていたので、それを大神様に届けに来た。大神様は「いつ人間は死ぬかわからないから、早く神行をしなさい」と説かれたが聞く耳を持たず、「ビュイックを買いましたから、ナイヤガラの見物に一緒に行きましょう」と遊びに誘った。その2日後脳溢血で急死。子供が大神様に連絡してきた。大神様は、昨年お世話になったから、葬式してやろうと訪問されたが、子供達は応接室に通しただけで遺体と面会させず、お祈りもことわってしまった。神様とわからないのでどうしようもない。大神様はその後「説法のたびに小川の婆さんが同志の間にうずくまり出てくる。救ってやろうとしても肚の神が救わせない。」と仰せられた。しばらくしてお婆さんは出てこなくなり、肚に聞くと、姉(ハワイの山田夫人)の所にいったと言われた。ここから、「物で神様にいくら尽くしても、心を直し清めていかないと神様は救わない」という誤解が同志の間に広まった。しかし神様はそんなに冷たくはない。義理堅いのである。その後紀元19年2月大神様はご説法で話された。「今小川の婆さんを救った」

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東が西と言われても、西が東と言われても。。

「東が西と言われても、西が東と言われても、白いが黒いといわれても、黒いが白いと言われても、ハイ・ハイでなきゃ神の国(天国)に行かれん。」と大神様は度々説かれた。自分が東(正しい愛、善)と思っていたのが、西(間違った愛、悪)であったというのは、大いに有り得る。自分が白い(真理、正しい教義)と信じてきたものが、実は神様から見ると黒い(誤謬、歪められた教義)というのも、実にありそう。この言葉の並びも興味深い。愛(善悪)を説き、次に真理(信仰の教義)を説くのが、キリスト教の聖書でも通例であり、大神様の説法もそうなっていることを発見できる。
要約すれば善悪・正誤の判断は人間の自我でするのでなく、神の教えによって判断せよ、となる。旧約聖書創世記3章で、人間が善悪を知る木の実を食べてエデンの園(天国)から追放された話と同じであると気づく。キリストは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉により生きる。」と教えた。大神様は「馬鹿になれ。馬鹿になれ。阿呆馬鹿ではやれないけれど、無我の馬鹿になれ。」と自分の自我判断でなく、神の教えを判断基準に生きるよう教えた。これは「空」の悟りと同じとも言われた。人間の心はコロコロ変わり、人間の判断はちっともあてにならない。また世間の価値基準も神様からみると曲がっている。自分の信じてきた基準は曲がっていたかもしれない。執着すべきでないと繰り返し教えられているようだ。神(大神様)を信じきれ。と度々言われているのは、仏教・キリスト教と共通する。信じたればこそ救われる。信じたればこそ悟れる。
右が左、上が下、夜が昼、と言われてもハイハイで行きなさい、などとは何故説かれないで、東が西とか白いが黒いとか、23年間も全く同じ表現で説かれ続けるのか?大神様は常に実相界(霊界:この場合は天界)から説かれているため、説法の言葉は常に天界での表現が現象界(現実世界)に降りてきていると考えると良くわかる。(天声493号にこれに関する神言葉をまとめた記事がある。)。キリスト教の聖書も全く同じらしい。無我とは神様のいうことをハイハイで実行していくことで、知識を否定し捨てよということではない。スタンフォード大学名誉教授ラスボン氏のグループを指導された時、宗教を非常に良く研究した人間には神教はすぐわかる。また全く宗教をやったことが無い人間もわかる。中途半端にやった人間がわからない。ちょうどトンネルに入る前と出た後が明るいのと同じと言われた。
(注)右に行くのが自分が神行する方に行く。左に行くのが、自我で行くこと。という説法もある。例えば紀元22年12月19日。右巻きか左巻きかは霊のらせん運動では重要で右巻きが天界を目指し、左巻きが地獄を目指しているというスウェーデンボルグの解説があったように記憶している。

(注)「天界の秘儀」1巻P118に9,10節の神が人に呼びかけ問う所の解説に「主はすべての事を前もって知っておられる。しかし人間に何処にいる、何をしているのか、と尋ねられる。これが聖言では普通である。その理由は人間が神を承認して自分を告白するためである」

これで思いあたるのが、大神様は宇宙絶対神が宿られていて全知なのに、道場に来た人に「何処から来たのか、名前は」と尋ねられることがよくあった。これが不思議であったが、その理由の一端はここにあったのだろう。

また大神様は子供Aなどに「はい」と言えと強く迫られることがよくあった。これも霊界で「神の呼びかけに応答した」というAの功徳を積ませた大切な行だったのかもしれない。

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感謝の反対はあたりまえ?

同志との話に感謝の反対は何なのか?という話題がしばしば出てくる。「あたりまえ」だという珍説を言う人もいる。これは日本語文法を知らないことからでる発言だ。名詞「感謝」の反意語は名詞「恨み」。動詞「感謝する」の反意語は動詞「恨む」。述語「感謝しない」も反意語になる。「する」の反意語は「しない」だから。「出る」の反意語は「入る」または「出ない」。ここから「感謝がでる」の反対は「感謝が出ない」になる。「感謝を感じる」の反対は「感謝を感じない」「当然と思う」「あたりまえと思う」と展開し、名詞「感謝」の反意語を「当然」「あたりまえ」という「新説」を言う人がいる。こうなると「暑いと思う」「暑いと思わない」「あたりまえと思う」から敷衍して、形容詞「暑い」の反意語まで「あたりまえ」になる。また「恩を感じる」、「義理を感じる」などから「。。。を感じない」、「あたりまえと感じる」と展開。「恩」、「義理」の反意語が「あたりまえ」になってしまう。名詞としての「感謝」の反意語は「恨み」である。大神様は実に正確な日本語を使われている。「恨みが感謝に変わるまで、行じよ」  

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心の掃除・因縁を切る

世間には「心の掃除のうまい人下手な人」という本がある。嫌なことは忘れ、自己卑下、不安、ストレス、自信のなさを乗り越えてポジティブシンキングになろうというような内容らしい。
神教の心の掃除は全然違う。まず自分の中に良い心と悪い心があるのを自覚する。
悪い心とは自分の欲望を満たそうという心で、自己実現を求め、名誉を求め、地位を求め、権力・支配を求め、富と利得を求める心。人の賞賛を求める。異性を家庭を越えて求める心。所有欲、自己愛、邪淫でまとめられる地獄の心である。自己が上になり優先し、神を下にして二の次にする心である。
「昔には人が悪事をしておれば、わしもやりたい。欲しいものなら、あの人よいことしておると思うて見ていたその目と、今見る目とは違やあせんか。我が子かわいさに我が子の生きる道がないようになるのも知らずして、ああして悪事をやっている、あわれな姿が分かるようになったその時は、神の目目がついておる」というご説法にこの善悪2つの心が共存するレベルに達したことがいわれている。
神様は始めには優しく説いて、このレベルにまで導くが、次の心の掃除、悪い心の制圧・克服の為には、試練が必要で、ガツンとやるといわれる。心の掃除とは試練を神教で乗り越えることでできる厳しい行だ。例えで考えてみる。
多年草は根が残り、毎年草花を出す。毎年、草は新たに芽を出し、成長して花を咲かせ、実を結んで枯れる。人間も似ている。根とは霊界にある自分の魂である。前年の草とは、自分の前世である。魂の中に悪い本性(欲深い、女好き、男好き、自己顕示が強い,自己中の我が強いなど)があり、前世にそれが原因で大きな罪を作ると、根の部分の魂に罪の因縁が降りてきてついてしまう。草に病原菌がつくと、根も感染するのと同じ。今生で、大きな悪因縁が出て苦労に直面したとき、その根本原因の本性に直面して気づき、それを直していくと、魂が清められて、因縁も切れて、試練を乗り越えられる。
気違いや重病人の人に、「お前の我儘を取らないと治らない」と大神様は度々指導された。「我儘が進むとヒステリー、それに幽霊がつくと気違い」とも指摘された。我儘とは自分の心中に期待する空想世界を作り、他人や境遇が自分の思いどうりになると思い込み、他人のことなど眼中になく、自己中心に生活、行動することである。これは当然摩擦を生じ、思うようにならない。そこで腹を立て、怒りっぽくなる。高じると理性を失いヒステリーになる。これが常態化すると気違いになる。気違いが治るには、自己中心的な生活を改め、これまで自己中心的な振る舞いで、多くの人に迷惑をかけてきたことを反省懺悔する必要がある。人間の生は今生だけのものではない。多年草のようなものである。ユリは球根があり、毎年地上に芽が伸び、成長、花も咲き実もつける。そして枯れる。翌年にも同じく芽が出てくる。球根が魂で、地上部分が一生。ある年、ユリが葉が黄色くなる病気にかかると、球根に病気が潜み、翌年芽を出したユリも葉が黄色くなる。ある生で悪事を働くと、魂に悪因縁がつく。今生でその悪因縁の故に、重病にかかったり、気違いになったりする。この人のそもそもの悪因縁が自己中心の悪事に由来していれば、その根本原因の「我儘」を直さないと悪因縁は切れず、病気も治らない。
大神様は前世の因縁を見て、結婚を世話した。非常に条件の悪い常識では考えられない所に嫁に行ったり、養子に行ったケースもかなりある。この場合前世において、嫁や養子は相手先の家族(の前世)に大きな迷惑・罪を作っており、今生相手先にとことん尽くすことで、前世の罪の因縁が切れ、従い即身成仏できるようになる。神に行ける。この場合、出てくる不満、湧いてくる怒りを反省懺悔して、心から感謝を持って相手に尽くせるようになるのが、心の掃除であり、因縁を切る行になる。自分の不満・怒りは前世で相手が自分に対して起こした不満・怒りと同じものである。これに気づき、相手に感謝して尽くすように努力することが、心の掃除である。この「心の掃除」ができるように結婚を世話したとも言える。
心の掃除とは、この本性に気づき、治すことである。因縁を切る行を「心の掃除」とも言う。反省懺悔だけでなく実行の伴う行である。魂の悪い本性が取れないと、神の国に住めない。心の掃除とは魂の本性直しであり、因縁を切ることと結びついている。ここから「心の掃除とは試練を神教で乗り越えることでできる厳しい行」と言われる。
「神の御国になったら神の命令どうりハイハイで素直に行きさえしたら行かれる。それが、行きよったら自分の本性丸出しをする。その本性、自我と神様とを一緒にして行こうと思ったら、どっこい、ある程度まで行かれても、それから行かれなくなる。それから神の法則を守って行かんにゃ行かれない。そんなら後に引き返そうと思っても引かれない。先に行こうと思っても行かれん。そこまで行って神の鞭が出だすのよ。そこを通って初めて神の国に行かれるのよ。わしでもここまで出る道中にゃ、肚を3回切ろうと思うたよ。」
心の掃除は、この教えの根本である。心の掃除のできた人はお祈りで無我になれ、知らずに悪霊済度ができる。それが世界平和に直結する。心の掃除は、本人が神行く行であり、自分のための行であり、世界平和という他人のための行でもある。仏教でいう自利利他円満の行なのだ。

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運は天にあり・ぼた餅は棚にあり

大神様はご説法でこの「ことわざ」をよく話される。天運にむかっていけと説かれる。しかしこれは世間の「棚ぼた」と意味合いが異なる。
棚ぼたというと、棚から落ちてきた牡丹餅が、口に入る類の努力のいらない幸運を意味する。大神様は「お腹が空いた人が立ち上がり、何気なく棚を開けるとぼた餅があった。人に尽くし徳を積んでおくとこのような思わぬ幸運がめぐってくる」という意味で説かれる。江戸時代の心学のことわざ「天運 運は天に在り 牡丹餅(ぼたもち)は棚に在り」に近い。そこでは次のように説明されている。
「そもそも運という文字は、めぐりめぐり動くという文字なり。此の運の字に天という字を上に添えて、天運とこそいうなれ。此の二字は、天の心に順(したが)い、めぐり動くという字儀(じぎ)なり、此の字の心を合点し、身につとめ行い持つを、天運をよく得たるとはいうなり。此の天運をよく得れば、災いたちまち吉事と成り、貧窮変じて富貴と成り、寿命長久疑いなし」(脇坂義堂)
要約すると、運は神様が支配しているから、神様の意に沿えば幸運がくるし、背けば悪運がくる。人間は悪事を避け、善に励み、神様のみ心に叶うように勤めていくと運が向いてくる。

大神様が自分の体験ではなされる例:

継母から虐待されていた近所の子供Aを見かねて大神様の父母が引取り養育した。その子は長じてアメリカに渡り成功、恩を感じて何回もサヨ様に送金してきた。それをサヨ様の母名義で預金しておき母が死亡したときお寺に半分寄付し、残りを兄弟に配った。Aは晩年病身で単身帰国したが、浴本家(大神様の実家で父母がなくなり長兄が跡を継ぎ、その長兄も亡くなっていた)の兄嫁は厄介者と見て、着くなり夕方にサヨ様宅に送りつけてきた。サヨ様は自分のお金で入院させ自ら何日も付き添いもして看病を尽くした。彼は退院した時、アメリカから送った大量の荷物が届いた。兄嫁は彼を引き取ろうと申し出たが彼は拒否した。彼は重病で間もなく死亡したが、その前にかなりの金融資産をサヨ様にすべてわたした。

別例:A家はその地方の富豪であったが、お寺を立てる時の寄付集めの時、一部を横領した。その祟で、息子が政治に熱中し財産を使い尽くし、すべて抵当で取られることになり、サヨ様に買って欲しいと依頼してきた。3重・4重抵当であったが、それを整理し、全て買ってやった。畑にサツマイモが植え付けてあったので、芋代も上乗せして買ってやった。年末になり、お爺さんが食料がないから、収穫された芋を半分欲しいと言ってきたので無料であげた。彼はそれを売ってしまった。正月になり、さらに欲しいと泣きつかれたので、残っていた芋とお餅までつけてあげた。その後入手した土地に買い手がつき、付録でついてきた山など3000倍もの価値になった。
(注)心学とは徳川幕府が庶民の道徳意識を高めるために推奨した、実践的な道徳教のことである。石田梅岩(1685年 - 1744年)を開祖とし、神道儒教・仏教の三教合一説を基盤としている。その実践道徳の根本は、天地の心に帰することによって、その心を感得し、私心をなくして無心となり、仁義を行うというものである。その最も尊重するところは、正直の徳であるとされる。手島堵庵・布施松翁・中沢道二・脇坂義堂など多くの道徳的指導者を排出した。手島堵庵は心学の同志が集まって切磋琢磨(せつさたくま)する研究会を組織し、その会場を心学講舎とした。心学講舎の初めは1765年で五楽舎と名付けられた。最盛期には全国に180カ所以上の心学講舎があった。

ネット検索すると脇坂義堂の名言に神教と似たものが多く見つかる。例えば

よしあしの人にはあらで我にあり形直うて影もまがらず。(孝行になるの伝授)

子供が親不孝になる原因は自分にある。自分が親不孝をしてきていて、子供に親孝行になれと言っても駄目。蛇の頭が曲がっていて尻尾にまがるなというようなもの。自分が反省懺悔して心が直っていけば、子供も(因縁が切れて、神様が頭をひねって)直ってくる。神教と同じ。

宗教画

子供の絵本に「地獄」というのが広く読まれているようだ。人間は現世で悪いことをすると死後に地獄で苦しむことになる、ということを教える、とても良い本だ。これは寺院の地獄絵から抜粋して作られたようだ。寺院の絵は、「正法念処経」という仏教の経典を絵画で描いたものだ。これが典型的な宗教画である。

日蓮上人の伝記を絵画にした絵巻や絵板がある日蓮宗の寺がある。ボロブドゥール遺跡では、釈迦伝を絵画化した彫刻が道順に飾られている。イタリアの大聖堂には、壁、天井に多くの絵画が書き込まれているものがある。旧約聖書新約聖書を絵画化したものでストーリーになっているものもあるようだ。新約聖書とはキリストの伝記である。

一般信者は文盲だったり、サンスクリットの経典、ヘブライ語の経典など読めないのが普通であるから、絵画化は重要だったと想像できる。

現代なら映画化、漫画化になるかもしれない。ただ作者がその宗教の本当の信者でないと、冒涜してしまうケースが多い。

参照:

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ハワイから送られたご説法(後編)

北加州に戻ってから、白人がよけい来始めて、それが英語の新聞を見て来たのじゃが、やっぱり神様の導きじゃたんじゃろう。皆喜べよ。神を求めて、本当の教会なんかには神がおらんということを知ってから、心の掃除をしてそうして神にぶつかっていくという、そんなグループが何ぼにもわかれてあるらしいんじゃ。

一昨日もハワイに、日本には12年おったちゅう、日本語もよく分かるロシア人が来たが、それに北加州の白人連中を写した写真を見せたら、それに友達がいっぱい居るちゅうんで。それで自分は、この27日に、わしがこの間行ったサンタクルスの山の家 セコイア・セミナーに行くのじゃそうな。8月30日には戻ってくるから、そしたらこのハワイに3つグループがあるから、そこに来てくれ、と言うから、そりゃ行ってやろうと言うた。セコイア・セミナーというのは、キリストの先生の教えの会、林の中の学校、宗教の学校ちゅうんで、スタンフォード大学の法律のプロフェッサーのラスブンさんいうのが、一番古う教えちょるんじゃが、25年ぐらい言うて、よく考えてみたら27年になるちゅう。ミセスが先に来始めてから、その来始めにゃ、哲学のプロフェッサーとかいろいろな先生とか、まあ、スタンフォードの先生らがいっぱい来たが、その家内が言うのに、今度次にゃ、一番上の人を連れてくるちゅうたのが、ラスブンさんじゃった。それで来たときに、名妙法連結経、名妙法連結経、と一生懸命祈りよるんよ。それからわしの説法聞いたら、ニコリ、ニコリ笑って、にっとうなずいて聞いておる。通訳を入れて話させりゃ、苦い顔をしよるから、あんたら日本語がわかるんか、と言うたら、それはわからんのよ。一つもわからんのじゃが、わしの話は魂に響くというてよう聞きよった。

本部道場でわしは10年神行しておるけえ、10年生と思うなよ、といつも言いよったろうが、まだあんなによう分かるのを見たことがないよ。本当に仏様みたいな。じゃが、悲しいことには法力がないので、行かれなかったのよ。感心しちょるのは、みんな現職奉公で、それには医者とか本屋とか、色々の人がおるが、学校の先生が多い。来年はそれらの仲間が30人程日本に指導に行くようになっちょるそうなよ。それへ名妙法連結経を早う教えちゃれと肚がいう。この間はにわかじゃけえ皆集めることができだったが、わしの肚が3年したら来るけえのう、と言いよったら、今度3年して来られた時には、山の家に泊まって説法してもらう、と言いよった。その時には、ちゃんと皆に連絡をしっかり取るというて言いよったが、なんというても、ハワイの方からでも、この休みにはロシア人が行くちゅう位じゃからのう。もうほうぼうにわかれちょるのよ。その山に、あっちにもこっちにもそういう宗教を研究するグループばっかしがある。面白いね。それらが来て、この山の向こう側に自分らのグループがあるが、そこへも今度3年して来る時にゃ来てくれという。無我の舞を見ても、踊りの先生いうのが、ひとつも稽古せんのが、一人が踊る様になって、歌うのを見てから自分らの所と同じと言う。自分らの所でも振り付けも何もせんとひとりでに歌が出て舞もする。それを譜にこしらえるちゅう。面白い時が来たものじゃろうが。

感心なことには、彼らは自分を直すことより外に何一つ求めていない。神様のためならもとより命を捨てています。この連中じゃからのう。それがスタンフォード大学いうのは一流の有名な大学なんじゃが、そこのプロフェッサーといえば、まあ最高の学問を受けた者よ。それが自分を捨てて世界平和のために、絶対なる神へぶつかっていくちゅう。そんなのはまだ本部道場へ来たことがないよ。本当に美わしい世界、それで地位も名誉も、金も財産も通用しない国よ。

それにあそこにあれだけの道場を作っちょるが、あれはこの教えと同じで、誰からも寄付をせい言うたんでもない。みんな「お願いします」というみんなの盛り上がる力でできた道場じゃそうな。不思議に何もかも同じことを、わしより10年早うやっちょるんで。

哲学のプロフェッサーが来た時に、「あのおっさんと、あのおっさんが一番よう理屈を言う。理屈があったらおれに理屈を言うて来い。それで何を聞いても返事をようしなかったら首をやる。そして答えてその答えが理屈に合わんことがない。そんなのがアメリカ広しというてもできる者がおったら連れてこい」「ありません」「それが人間でやれないことがわかったら無条件降伏をせえ」と言うたんじゃが、それが、先に来よった外人連中はみんなわかっちょるから、大神様に質問せえ、質問せえ、出来だったら無条件降伏を早うせえ、と皆が急き立てる、そしたらとうとう無条件降伏して、名妙法連結経、名妙法連結経やったよ。

インド人の医者で10年研究しておっても、主人も医学をずっと研究しておるのがいる。最初ミセスが来て、次にその主人が来たときには、合正してニコニコして、名妙法連結経いうて挨拶したよ。もう彼らは電話を掛けても名妙法連結経いうて電話を掛けるよ。

また世界を飛ぶ飛行機に乗りよったというドイツ人(スコラス)が来たが、もう宗教という宗教は皆かじって仏教を研究するためにインドまで行ったいうんじゃが、もう理屈を言わしたらよう知っちょるが、「うるさい。それはほぐかご(ごみ箱)いや。そのほぐかごを捨てい。おらじゃったらええものをやるから来い言うたら、空っぽの袋を持っていくが、お前のは日本で言う栗のいがみたいなのがごちゃごちゃ詰め込んじょる。入れちゃろう言うても、栗のいがが邪魔になって入りゃせん。そんならそれを捨てい言うても、逆さにしたところで出るんじゃない。手を突っ込んで出そういうても痛うて出さりゃせん。袋を取り替えた方がええ」と言うたら、終いにはニコニコ笑いながら、毎晩毎晩やって来て、テープを持ってきて取って帰ったのよ。

白人の弁護士も来たが、来てからちゃんとかしこまっちょるけえ、まだ腰掛があるから掛けえ言うたら、私はこの間日本から帰ったばっかしじゃから、これが得手という。それが本願寺の何とかに招待されて行っちょるのに、坊主が百何十人もずらりと衣装を並べて、劇をやるような、あれを宗教とは思わん、カトリックみたい言いよったが、もう力のなくなった世の末になったら、いよいよ形でこしらえて、衣装とか何とかで化かしあげて、皆を騙さにゃいけんようになる。

この間の白人連中は、アメリカとソ連とが原爆水爆をみな使うた時には地上に人間が一人もおらなくなる、と心配しておる。またどこの大学で説法しても皆気づこうて、ソ連が原爆水爆を使うでしょうか、と問う。「使わにゃ嘘よ。いつかは使うから、当たらん所におれ。」と言うんのよ。神行とは神に行く、宇宙絶対なる神の懐に帰れ。わしの口が一人前になればなる程、世の中は不安不安の世界になってくるのは判ろうが。われおる所即ち天国浄土なり、天国や浄土に爆弾の落ちるような天国浄土を作った覚えが天にない。自分のおる所がいつも天国になるようになれ。

 北加州の連中とは、たったこの間別れたのに、今会いたいいうて手紙をおこすのがおいる。自分の悪い所を云うてくれ、というておこすのがあるが、何と素直なよ。それでもっと神教が知りたかったら日本語を研究しなさいと言うてやったが、100億万ドルの金を貯めても何にもならんが、日本語がわかって本当に聞くことができて、実行することがげきる人は仕合わせよ。

アリゾナ州から来た白人は、神歌やら若人の歌、子供の歌、皆覚えて来てから歌いよる。また神歌のローマ字と日本字と両方つけた譜を刷っちゃろう、と言うたら、喜んでピアノをひく真似をして、これでやりますという白人もおるが、とにかく、あの神歌を聞いたらジーンとするという。あの神歌もわしの肚が教えた歌じゃから。

軍の方の警官をしておるというモアさんが、一遍家に来てくれというから、この間午前中ちょっと行ったが、朝わしを連れに来て、行ってしゃべっちょいて、また道場へ連れてきてくれた。警察はとっても忙しいらしい。昼の2時から勤めてから、晩にはもう夫婦が参って来ておる。また晩の12時から勤めるいうから、早う帰って休め言うたんじゃが、「ノー」言うておるが面白い世界よ。それでとうとう自動車で45分かかる所からその日に3回道場に来たのよ。それで、夢の国みたいに、くたびれも何もせんという。皆が一生懸命に暇さえあったら来る。ああして一生懸命やってくれるのも、肚に入った神様が急き立てて使うことが分かろうが。人が頼んでやれるんじゃない。何か肚から急き立てられて動きよる。

 新道場の図面でも、わしが出る時よりか今度送ってきた図面は立派なよ。わしの肚はああいう設計士(丹下健三大谷幸夫・沖種郎)を待っておったのよ。本当。所と教えとを自分の肚に呑み込んで、ひとりでに浮いてくる図面が欲しかったのよ。あそこにはああいう型がある、ここにはこういう型があるいうて、あの型紙を持ってきて合わしたり、この型紙を持ってきて合わしたりするのはわしの肚が嫌う。

新道場建設でも、昔から金に合わした念仏いうけど、宮とか寺とかなら、これだけの予算いうてやるが、わしのは神様がやらせるのを、こうして先頭に立って神様の世話をするだけじゃから、無駄な物をこしらえるのは嫌い。立派に飾り付けるのも嫌いじゃが、本当の真髄そのものをこしらえるには、金にこだわらず、思い切ってこしらえろとわしの肚はいう。

後わずかで帰る。じゃが、やれ帰るいうて騒がしかろうが、わしが出る時の程度位にして余り騒がんと、道に捨てんようにして、何が何でも道場が出来上がるまでは頑張らにゃならん。(送迎にお金を使わないで、道場建設を優先するように、の意味)

先頭行く者も後に付いて来る者も同じ気持で、世界平和のために、正しい神のなさるがままという行をするんじゃから、今こそ神様が世の中に飛び出ようとしちょるんじゃから、新道場の屋敷が開けたのを見ても、まだ道場ができんでも、屋敷構えができただけでも、今までときれいに皆の感じが変わって来ておる。とにかく、世の中に出りゃ出る程、わかればわかる程、神教は実行だ、実行だ、実行だよ。実行していかにゃ、油断したら、早うわかった者が今度は神の国破りをするのが今迄の習慣じゃったが、今度はどこまでも実行、実行で行きさえしたら、誰でもやれる神様の使いじゃけえやってくれよ。

(参考)

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(参考)大神様第3回海外ご巡教の日程

 

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(参考)有名な海外同志

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