運は天にあり・ぼた餅は棚にあり

大神様はご説法でこの「ことわざ」をよく話される。天運にむかっていけと説かれる。しかしこれは世間の「棚ぼた」と意味合いが異なる。
棚ぼたというと、棚から落ちてきた牡丹餅が、口に入る類の努力のいらない幸運を意味する。大神様は「お腹が空いた人が立ち上がり、何気なく棚を開けるとぼた餅があった。人に尽くし徳を積んでおくとこのような思わぬ幸運がめぐってくる」という意味で説かれる。江戸時代の心学のことわざ「天運 運は天に在り 牡丹餅(ぼたもち)は棚に在り」に近い。そこでは次のように説明されている。
「そもそも運という文字は、めぐりめぐり動くという文字なり。此の運の字に天という字を上に添えて、天運とこそいうなれ。此の二字は、天の心に順(したが)い、めぐり動くという字儀(じぎ)なり、此の字の心を合点し、身につとめ行い持つを、天運をよく得たるとはいうなり。此の天運をよく得れば、災いたちまち吉事と成り、貧窮変じて富貴と成り、寿命長久疑いなし」(脇坂義堂)
要約すると、運は神様が支配しているから、神様の意に沿えば幸運がくるし、背けば悪運がくる。人間は悪事を避け、善に励み、神様のみ心に叶うように勤めていくと運が向いてくる。

大神様が自分の体験ではなされる例:

継母から虐待されていた近所の子供Aを見かねて大神様の父母が引取り養育した。その子は長じてアメリカに渡り成功、恩を感じて何回もサヨ様に送金してきた。それをサヨ様の母名義で預金しておき母が死亡したときお寺に半分寄付し、残りを兄弟に配った。Aは晩年病身で単身帰国したが、浴本家(大神様の実家で父母がなくなり長兄が跡を継ぎ、その長兄も亡くなっていた)の兄嫁は厄介者と見て、着くなり夕方にサヨ様宅に送りつけてきた。サヨ様は自分のお金で入院させ自ら何日も付き添いもして看病を尽くした。彼は退院した時、アメリカから送った大量の荷物が届いた。兄嫁は彼を引き取ろうと申し出たが彼は拒否した。彼は重病で間もなく死亡したが、その前にかなりの金融資産をサヨ様にすべてわたした。

別例:A家はその地方の富豪であったが、お寺を立てる時の寄付集めの時、一部を横領した。その祟で、息子が政治に熱中し財産を使い尽くし、すべて抵当で取られることになり、サヨ様に買って欲しいと依頼してきた。3重・4重抵当であったが、それを整理し、全て買ってやった。畑にサツマイモが植え付けてあったので、芋代も上乗せして買ってやった。年末になり、お爺さんが食料がないから、収穫された芋を半分欲しいと言ってきたので無料であげた。彼はそれを売ってしまった。正月になり、さらに欲しいと泣きつかれたので、残っていた芋とお餅までつけてあげた。その後入手した土地に買い手がつき、付録でついてきた山など3000倍もの価値になった。
(注)心学とは徳川幕府が庶民の道徳意識を高めるために推奨した、実践的な道徳教のことである。石田梅岩(1685年 - 1744年)を開祖とし、神道儒教・仏教の三教合一説を基盤としている。その実践道徳の根本は、天地の心に帰することによって、その心を感得し、私心をなくして無心となり、仁義を行うというものである。その最も尊重するところは、正直の徳であるとされる。手島堵庵・布施松翁・中沢道二・脇坂義堂など多くの道徳的指導者を排出した。手島堵庵は心学の同志が集まって切磋琢磨(せつさたくま)する研究会を組織し、その会場を心学講舎とした。心学講舎の初めは1765年で五楽舎と名付けられた。最盛期には全国に180カ所以上の心学講舎があった。

ネット検索すると脇坂義堂の名言に神教と似たものが多く見つかる。例えば

よしあしの人にはあらで我にあり形直うて影もまがらず。(孝行になるの伝授)

子供が親不孝になる原因は自分にある。自分が親不孝をしてきていて、子供に親孝行になれと言っても駄目。蛇の頭が曲がっていて尻尾にまがるなというようなもの。自分が反省懺悔して心が直っていけば、子供も(因縁が切れて、神様が頭をひねって)直ってくる。神教と同じ。