6魂清浄と日本語の品詞

天照皇大神宮教の6魂清浄とは 「惜しい・欲しい・憎い・かわいい・好いた・好かれた」この6つの魂を清浄にせよ という教えである。
日本語の文法で見ると、最初の4つ「惜しい・欲しい・憎い・かわいい」が形容詞終止形。
「好いた」は、カ行五段活用の動詞「好く」の連用形である「好き」のイ音便形に、過去・完了・存続・確認の助動詞「た」終止形が付いた形。
「好かれた」は、カ行五段活用の動詞「好く」の未然形である「好か」に、受身・尊敬・自発・可能の助動詞「れる」の連用形「れ」がつき、過去・完了・存続・確認の助動詞「た」終止形が付いた形。
日本語文法は完成された理論がなく、流派ごとに違っている。形容詞の文型もその一例。古くは、「象は鼻が長い」「象の鼻が長い」論争があった。憎い・かわいいなどの感情表現形容詞では主語は自分「私」に限られる。(例)「私は金が欲しい」
2つずつがペアーな語になっている。「欲しい」は自分に何かを取り込みたい。「惜しい」は自分から出ていく何かが惜しい。「憎い」の反意語が「かわいい」。「にくい人」とは「かわいい人」という意味に使われる反意語用法である。「好いた」より一般的によく使われる「好きだ」(形容動詞、ナ型形容詞)になるとペアーな語は「嫌いだ」になる。「好きだ」「嫌いだ」を神様は清めるべき魂と言われないで、「好いた」「好かれた」を神様が言われるのはなぜか。6魂の中で「好かれた」だけが受け身である。なぜ「受け身」が自分の清めるべき魂なのか、疑問を持った人もいた。鋭い感性だ。

「好いた」「好かれた」は動物としての人間の生殖本能に由来する。生殖にはオス・メス両方の承認が必要で、「好いた」本能だけでは成立しない。動物では、繁殖期のオスは特徴的な姿になり、特徴的な声をだし、特殊な行動をすることがよくある。これはメスを引きつけるためで、「好かれたい本能」の現れだ。動物の種類によっては、オスでなくメスに特徴的な変化が出たり、オスメス両方に出たりしている。人間はこの本能も清めなさいという教えが「好いた」「好かれた」清浄。

人間の心は複雑で、因縁もからんでくるため、なぜ好くか、なぜ好かれるか、を分析するのは困難である。魂を「見える化」してみるのはヒントになりそう。霊界相応の多くの事例から考えて、魂も、生物の細胞、細胞内小器官などと基本の反応は相応していると想像できる。これらは他者からの境界にリン脂質の膜などを持つ。そこにアクセプターとしての突起、レセプターとしての窪みがある。自分のレセプター(鍵穴)に合致するアクセプター(鍵)を持つ物質が来ると、膜が開いて、その物質を取り込む。代謝もウィルス感染も受精も同じメカニズム。複数の鍵がついているドアのように、複数のレセプターが組み合わさって働く。魂も同じなのではないだろうか?例で考える。

「目が大きい、親切、金にだらしない、手を振る癖がある」「笑顔で自分を褒めてくれる」「話したい」この3つのレセプターを持っている男がいて、「目が大きい、親切、金にだらしない、手を振る癖がある。」「相手を褒めるのがうまい 嬉しそうに笑顔でいる」「聞き上手」という特徴を持った女性Aが現れると、男は恋に落ちる。自分が結婚していようと、相手Aが結婚していようと無関係に恋してしまう。魂のレセプターに女のアクセプターが一致したから。(恋の生理学:全シーンで常にAの特徴を五感が最優先でパタンマッチングしAがいないか探索、いると脳内ホルモン アドレナリン、ノルエピネフリンドーパミン,オキシトシン、パソプレシン等が大量に放出される。Aの記憶ですらこれら脳内ホルモンを放出するトリガーになる状態)。この男は自分のレセプターに気づき、この性癖を直さないと人間道をまっとうできないだろう。この因縁を切り、直す作業が、「好いた」を清浄にすること。

一方、相手の女性は、別にその男に好意を持つわけではないだろう。自分のレセプターが「顎にホクロ、霊能がある、声が低い、頭が良い」「主導権を取りたい 我がままを許してくれる」「金にふじゅうしなくて、いい生活をしたい」であれば、それに合致しないなら夢中にはならないだろう。しかし自分の特徴(アクセプター)が相手にはまっている。この言い寄られる状況をうまく切り抜けるには「好かれた」を清浄にすることが必要。「好かれる」快感に惑わされてはならない。脇が甘いと不倫に落ちたりして人間道をまっとうできなくなる。 

天照皇大神宮教(神教)の世界では「神教を共に行じる」というレセプターのみを持っている人もいるようだ。それを見抜いた人が、好きになった同志である娘さんに「神教を共に行じましょう」といってプロポーズ、大成功した事例がある。頭のいい彼は初めから殺し文句のつもりで言っただけで本気で神行する気はまったくなかった。結婚後それに気づいた妻との間に深刻な行が長年続いた。晩年になり彼は神教が本物であることがわかり、自分も本気で神行して同志になった。

人間の中には、相手のレセプターを感知しながら、自分のアクセプターをそれに合わせ「演じる」という特殊能力を持つ人もいる。営業の天才や、人たらし、詐欺の天才と呼ばれる人が典型。この種の相手には、自分のレセプターを不活化するのが一番の対策になる。「好いた」のレセプター不活化とは、自分の配偶者に満足し感謝できるようになることである。

人が結婚する時、自分はこの程度だから、この相手で良いと納得・妥協することが多い。それで問題なく長い家庭生活が送れる。しかしその底流には、相手に対する不満が隠れており、その相手への不満の底には自分に対する自分の不満・運命への不満がある。理想の自分という幻想に根ざす現実の自分への不満であり、自己愛の発露である。自己愛を反省することが、「好いた」のレセプター不活化、つまり「好いた」清浄につながる。「好かれたい」にも自己愛はからむ。

「好かれたい」の根本には生殖本能だけでなく、「うぬぼれたい」という自己実現欲求(自己愛)がある。大神様はご説法で鋭く指摘されている。昔、芝居小屋に顔の醜い娘が行った所、ある男が自分の顔を熱心に見ていることに気づいた。そこで男に「あんた私に迷った(惚れた)のか」と言った。男は「わしは瓦職人で、今から鬼瓦を作ろうとしているが、あんたの顔を見本にしようと思って見ていた」。

(注)紀元5年に出版された「神教」という小冊子に、6魂清浄は次のように書かれている。     

6魂とはすべての、惜しい・欲しい・憎い・可愛い・好いた・好かれた、をいい、人間の罪の根源をなすものにて、惜しい・欲しいとは、すべてのものに対する執着心であり、憎い・可愛いとは、すべてのものに対する憎愛の念であり、好いた・好かれたとは、すべてのものに対する過ぎたる愛のことである。我々は衣食住に魂を捕われず、この6魂を清浄にし一瞬たりとも魂が曇らぬまで、心の行をして行かねばならぬ。今日洗濯しても明日は又汚れている人の魂なるが故に、常に反省懺悔をなし、遂に一点の曇りなき魂にならねばならぬ。