義理堅い神様

 大神様は我々に真人間とはかくあるものということを実行して示され、それを教えとして残された。人間の徳目をすべて示されたと考えられる。徳目の一つが「義理堅い」である。自分が人から受けた親切・恩義を忘れず、それにちゃんと報いることである。
例1:大神様は晩年(紀元20年-22年)以前に親しくしていた近隣の人々(同志であるなしにかかわらず)を呼んで「お別れ」をされ、礼を尽くされた。
例2:大神様は自分にゆかりのある知人や同志が入院していると良くお見舞いに行かれた。これは海外ご巡教中にも実行された。お体が極限まで弱られていた紀元20年のアメリカでもそうだった。紀元18年の交通事故も同志(河村)のお見舞いに行かれる途上のことであった。ウィルソン・ホノルル市長は紀元7年大神様ハワイ巡教時、大神様に良く協力した。紀元16年大神様がホノルルに見えた時、彼は入院中であったが、大神様はお見舞いに行かれた。

例3:大神様のご聖業に協力した人々を救われた。これは数え切れない程多数ある。一例が町田夫人。戦争末期の田布施町長夫人である。戦犯で逮捕される直前の岸信介氏に面会されるとき同行したり、徳山市長本城家を訪ねる時同行したりした。彼女は結核痔瘻がひどかったが、大神様は、7日続く出血と下痢で「結核菌」を出してしまい完治させた。その19年後に寿命が尽きるまで健康で暮らした。
別例が「シカゴの小川夫人」である。大神様が紀元9年アメリカ大陸布教に行かれた時、シカゴで出迎えたのは小川夫人だけであった。彼女は60歳ぐらいの未亡人で、ハワイの同志山田夫人の妹であった。姉から頼まれて大神様一行(3名)の世話をされた。彼女は大きなビルのオーナーであり、子供夫婦と共に暮らしており、賃貸料で富裕な暮らしをしていた。大神様はそこに一部屋借りて、布教に回られた。小川夫人とその一家には信仰心は少しもなく、大神様のお話に少しも耳を傾けなかった。約一月後、政光夫人など真剣に神教を聞くグループができ、彼らの招きで、内村宅に移られた。1年後大神様が再度シカゴに来られた。日本同志の大神様宛の手紙が沢山小川宅に届いていたので、それを大神様に届けに来た。大神様は「いつ人間は死ぬかわからないから、早く神行をしなさい」と説かれたが聞く耳を持たず、「ビュイックを買いましたから、ナイヤガラの見物に一緒に行きましょう」と遊びに誘った。その2日後脳溢血で急死。子供が大神様に連絡してきた。大神様は、昨年お世話になったから、葬式してやろうと訪問されたが、子供達は応接室に通しただけで遺体と面会させず、お祈りもことわってしまった。神様とわからないのでどうしようもない。大神様はその後「説法のたびに小川の婆さんが同志の間にうずくまり出てくる。救ってやろうとしても肚の神が救わせない。」と仰せられた。しばらくしてお婆さんは出てこなくなり、肚に聞くと、姉(ハワイの山田夫人)の所にいったと言われた。ここから、「物で神様にいくら尽くしても、心を直し清めていかないと神様は救わない」という誤解が同志の間に広まった。しかし神様はそんなに冷たくはない。義理堅いのである。その後紀元19年2月大神様はご説法で話された。「今小川の婆さんを救った」

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