東が西と言われても、西が東と言われても。。

「東が西と言われても、西が東と言われても、白いが黒いといわれても、黒いが白いと言われても、ハイ・ハイでなきゃ神の国(天国)に行かれん。」と大神様は度々説かれた。自分が東(正しい愛、善)と思っていたのが、西(間違った愛、悪)であったというのは、大いに有り得る。自分が白い(真理、正しい教義)と信じてきたものが、実は神様から見ると黒い(誤謬、歪められた教義)というのも、実にありそう。この言葉の並びも興味深い。愛(善悪)を説き、次に真理(信仰の教義)を説くのが、キリスト教の聖書でも通例であり、大神様の説法もそうなっていることを発見できる。
要約すれば善悪・正誤の判断は人間の自我でするのでなく、神の教えによって判断せよ、となる。旧約聖書創世記3章で、人間が善悪を知る木の実を食べてエデンの園(天国)から追放された話と同じであると気づく。キリストは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉により生きる。」と教えた。大神様は「馬鹿になれ。馬鹿になれ。阿呆馬鹿ではやれないけれど、無我の馬鹿になれ。」と自分の自我判断でなく、神の教えを判断基準に生きるよう教えた。これは「空」の悟りと同じとも言われた。人間の心はコロコロ変わり、人間の判断はちっともあてにならない。また世間の価値基準も神様からみると曲がっている。自分の信じてきた基準は曲がっていたかもしれない。執着すべきでないと繰り返し教えられているようだ。神(大神様)を信じきれ。と度々言われているのは、仏教・キリスト教と共通する。信じたればこそ救われる。信じたればこそ悟れる。
右が左、上が下、夜が昼、と言われてもハイハイで行きなさい、などとは何故説かれないで、東が西とか白いが黒いとか、23年間も全く同じ表現で説かれ続けるのか?大神様は常に実相界(霊界:この場合は天界)から説かれているため、説法の言葉は常に天界での表現が現象界(現実世界)に降りてきていると考えると良くわかる。(天声493号にこれに関する神言葉をまとめた記事がある。)。キリスト教の聖書も全く同じらしい。無我とは神様のいうことをハイハイで実行していくことで、知識を否定し捨てよということではない。スタンフォード大学名誉教授ラスボン氏のグループを指導された時、宗教を非常に良く研究した人間には神教はすぐわかる。また全く宗教をやったことが無い人間もわかる。中途半端にやった人間がわからない。ちょうどトンネルに入る前と出た後が明るいのと同じと言われた。
(注)右に行くのが自分が神行する方に行く。左に行くのが、自我で行くこと。という説法もある。例えば紀元22年12月19日。右巻きか左巻きかは霊のらせん運動では重要で右巻きが天界を目指し、左巻きが地獄を目指しているというスウェーデンボルグの解説があったように記憶している。

(注)「天界の秘儀」1巻P118に9,10節の神が人に呼びかけ問う所の解説に「主はすべての事を前もって知っておられる。しかし人間に何処にいる、何をしているのか、と尋ねられる。これが聖言では普通である。その理由は人間が神を承認して自分を告白するためである」

これで思いあたるのが、大神様は宇宙絶対神が宿られていて全知なのに、道場に来た人に「何処から来たのか、名前は」と尋ねられることがよくあった。これが不思議であったが、その理由の一端はここにあったのだろう。

また大神様は子供Aなどに「はい」と言えと強く迫られることがよくあった。これも霊界で「神の呼びかけに応答した」というAの功徳を積ませた大切な行だったのかもしれない。

参照 

umou.hatenablog.com