「らんまん」の田邉教授と高橋是清

NHKの朝ドラ「らんまん」が人気で、そのモデルが誰かがネットで調べられる。東大植物学教室教授「田邊彰久」のモデルが矢田部良吉。1951年生まれで、コーネル大学に留学し、帰国後26歳で初代東大植物学教室教授になっていて、高知から上京した牧野富太郎が教室に出入りすることを許可している。

高橋是清さんは1953年生まれで、仙台藩アメリカ派遣でカリフォルニアに行き、明治維新直後に帰国。森有礼の書生になり、東大の全身「大学南校」の教師をしていた。その頃矢田部良吉と交流があり、高橋さんは、矢田部さんを兄貴としていたようだ。

高橋是清自伝」P95から引用する。

明治3年となって、森先生は勅命に会って、再び鹿児島から出てこられ、今度は小弁務使としてアメリカに行かれることになった。その時森先生の言われるには「実は今度お前も連れていきたいと思ったが、お前よりも年上の者で希望者が沢山にあるから、或は連れていけないかも知れぬ。しかしお前も折角希望していることでもあるから、出来るだけ連れて行くようにしよう」とのことであった。丁度その頃、私が維新前横浜にいた頃の先輩で、江川太郎左衛門の家来矢田部良吉という人が大学南校の教授になって来た。久しぶりに会って、兄弟同様に親しく交わっておった。もとより私よりは年上で、会話こそ上手でないが、英語を読むことは私より優れていた。この人がかねてから洋行したいという熱心な希望を抱いてをったから、私はある日森先生に向って「私を連れていかれる余地があったら、代わりに矢田部君を連れていって下さい」とお願いすると、では一度その人を連れて来いと言われるので、矢田部を連れていって面会した。矢田部という人は私が兄としてをったくらいで、なかなか頑固で、自分の意思を貫くことには非常な勇気を持った人であった。
森先生への紹介をすましてから、又は先生の所へ行って、先生の考えを聞くと「どうもあの人は少し狡猾なような風がある。しかいお前も頻りに自分の代わりといふし、他に見どころもあるからハッキリは決まらぬが、或いは連れて行くことになるだろう。」と言われた。それで帰って来て矢田部にありのままを話すと、矢田部は、「さすがに森さんだ、自分もそれには気ずいている。しかし多くの人は自分にその欠点のあるのに気がつかない、一見して見透すとは偉い人だ。それにつけても、その欠点を補わねばならぬ。どうだろう。連れて行って貰えるだろうか」と森さんの眼識には本当に驚いてをった。この人はとうとう望が叶って米国に行きコルネル大学に入学して、植物学を修め、後年大学教授になって亡くなった。
その時心配したのは、森さんの所で一緒に書生をしてをった長州の内藤誠太郎が頻りに森さんに連れていって下さいと願っていた。森さんも新たに知り合いになった矢田部を連れていって、内藤を連れて行かぬワケにはゆかぬので、遂に連れていくことになった。この人は、後に堀誠太郎といって、山口県の農業学校の先生か何かになり、私が日本銀行の馬関の支店長時代に一二度会った。その後この人も死んでしまった。

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