偉人 高橋是清

高橋是清さんは明治・大正・昭和初期に活躍された人で、仙台藩から派遣され、13歳ぐらいで米国に渡り英語を習得。明治維新直後に帰国し、森有礼の書生になり、東大の前身の学校などで教官。他人の借財を被って零落。当代一の芸姑の愛人になったりした。証券会社で遊び、為替相場、商品相場の実際を経験した。その後農商務省の官僚になり、特許制度を設計、特許庁を設立。特許制度を作るため米国、英国で研究しフランス・ドイツまでも現地に赴き研究した。博覧強記の天才で、各国の専門家からも高く評価されていたようだ。

友人仲間が始めたペルー銀山開発に担ぎ出され責任者にされてしまう。このプロジェクトは、根底に詐欺事件があり、現地パートナーも騙されており、日本から銀山調査に派遣した技師が人物が悪く、現地から全くの嘘の報告(実地調査せず、過去の外国雑誌の別鉱山の記事をそのまま報告した)をしたため、詐欺話に巻き込まれてしまった。高橋さんは鉱山技師、工夫など17名を連れてペルーに行き、標高4000メートルの高山を超えたところの銀鉱山を調査に行ったりした。後にそれが掘り尽くされた廃坑と判明。国際問題にならないように撤退し、日本からの投資は全損。責任者として全財産を差し出した。邸宅を売払い、その裏の長屋に借家住まいした。

友人の斡旋で日銀総裁川田小一郎に紹介され、実業界に丁稚から始めたいと頼み、当時建設中の日銀本館の建築事務所の主任になり、敏腕を振い、難題を多く解決し、今の日銀ビルを完成させた。川田総裁に見込まれ、日銀幹部の道を歩み、外国為替の国策銀行、正金銀行幹部になる。日本の金本位制を松方大蔵卿に協力して作っている。

日露戦争の戦費調達のため政府全権代表として欧米に派遣され巨額の国債発行を数次に渡り成功させた。発行国の金融市場の波乱要因にならないようにコール市場に資金放出するなどして、各国の財政家の信頼を得た。日銀総裁、正金銀行総裁などを歴任。金融財政の世界的、当代随一のエキスパートになる。

大蔵大臣に任命され、政治家にされてしまう。政友会に入党。原暗殺で後継総理大臣になる。以後も度々大蔵大臣になり、金融危機のときは、実質総理大臣(代理)として危機を乗り越えている。

1936年の2月26日事件(2・2.6)で暗殺される。82歳。

奇しくも「高橋是清自伝」が1936年2月9日に発行されている。

「随想録 高橋是清遺著」は1936年3月29日発行。

この2冊は稀代の名著である。無私の人とはこのような人、という人生記録でもある。