高橋是清随想録 魂のあらわれ

私は佛像が好きなので、かなり沢山の佛像が私のところには集まっている。中には、国宝にもなるというようなものもある。

私は10歳くらいの時に、お寺へ奉公に行った事があるが、私の佛像好きはその頃からはじまった。また私の祖母が、大へんに観音さまを信仰していて、毎晩、一緒に寝る時に、観音経をよんできかせて呉たりした事も、私の佛像恋しさの原因になっているだろう。

同じ佛像といっても、時代によって、非常な差がある。天平時代から、鎌倉時代の初期頃までは、ほんとうに佛教を信じ、本当に佛さまを随喜渇仰していた人間が作ったので、その頃の佛像は、むかえば自然に頭のさがる品と威とをそなえている。足利時代以後になると、技術の方は進んで来ても、作者の信仰が薄くなっているので、仰げば跪かずには居られないような、魂の篭った作はなくなっている。現今のは尚更の事だ。これは勿論日本ばかりの現象ではない。外国でも宗教の盛んだった頃に描かれた宗教画だけが、敬虔さに満ちあふれ、見る人の襟を正さしめる。

つまり、この作者の心が、魂が、その作ったものの上にはっきりと現れるのである。これは佛像ばかりの問題ではない。人間のすることは皆そうだ。魂の篭った仕事でなければ駄目である。

(注)高橋是清さんは20歳前後、明治政府顧問の宣教師、フルベッキ先生の書生をしたことがあり、キリスト教の聖書を講義され、聖書ももらった。毎日聖書を読んだ時代もあり、聖書を身近に置いていたようだ。