神行のしるべ 神行すれば幸福になれるでしょうか

神行してこそ真の幸福を味わうことができるのです。

よく神仏に「家内安全・家業繁盛」を祈る人がありますが、真の宗教はそのような利己の祈りをするものではなく、あくまで人間の性根(しょうね)直しをするものでなくてはなりません。大神様は「人間の道をまっすぐ行けば、すぐに神や仏の世界がある。神や仏の世界に行きさえすれば、天には無限の供給がある。神の清水は神行する者にのみ与えられ、恨みもなければ苦しみもない、病いもつかない世界がある。」とお説きになります。利己を捨てて神様のなさるがままになるなら、本当に嬉しい、楽しい、面白い地上天国があるのです。宗教は理論でなく体験して初めて妙味がさとれるものです。幸福を願わない人はありませんが、幸福を利己や自我で求めても絶対に得られるものではありません。また因縁(いんねん)が切れない限り明るい世界に出ることはできないのであります。

(続く)

神行のしるべ 神行生活とはどんな生活でしょうか

大神様は「神行の第一歩は六魂清浄。惜しい、欲しい、憎い、かわいい、好いた、好かれた、この6つの魂を清浄にし、反省して懺悔して、裸一貫なんにもいらない、なんどき命捨てても惜しくない、裸役者になったうえ、肚と祈りと誠心と3つ揃えて無我でこい。自我じゃ行かれぬ神の国」とお説きになります。まず人間は真人間にならなければなりません。口と心と行(おこない)の3つが一つになって人間の仲間に入り、住みよいみ国を建設するためには、地位も名誉も金・財産もかなぐり捨て命さえもささげて惜しまぬ、それが真人間であります。

六魂というのはあらゆる罪の根本になるもので、これを清浄(きれい)にするのです。人間はこの世に行(ぎょう)をするために生まれて来たのですから、衣食住に魂をとられずに、寒うさえよければよい、ひもじくさえなければよい。あっても贅沢(ぜいたく)に流れず、なくても不平をいわないで、ひたすらにおのが魂を磨き、反省懺悔して良心を清めて行くこと神行生活であります。

 (続く)

神行のしるべ 天照皇大神宮教

「神行のしるべ」は天照皇大神宮教で出された最初の出版物であり、天照皇大神宮教の紹介パンフレットである。この文章は富永みよさんが、大神様第一回東京布教(昭和21年3月−4月)の留守中、感応で大神様より教えられた内容を日々書き留めたものを、

藤井中将に見てもらい、最終的には大神様に見てもらい、間違いがないとして印刷したものである。

天声25号P31-34にも掲載されている。

はじめての人「神行のしるべ」

人はこの世に何の目的で生まれて来たのでしょうか

大神様は「人間はあらゆる生物を一周して、人間界は魂を磨きに出てきたところで、人間界においてのみ魂を磨くことができるのだ。」とお説きになります。地位・名誉・金・財産を得んがため、また恋愛せんがために生まれて来たのではありません。魂を磨いて神に行く。神行こそ人生の目的であるとお説きになるのであります。

(続く) 

 

花咲か爺と仏教の逸話

根本仏教叢書3巻(P89ー112)に載せられている経典(白犬経)で、因果を説いており、「花咲か爺」の原型のような逸話も含まれている。

長者トデヤプッタの宅に釈尊が托鉢にいくと長者は不在で白犬が吠えた。釈尊が叱ると犬が怯えた。長者は帰宅して犬が叱られたのを聞き、大いに怒って釈迦の所に抗議に来た。釈尊は弟子に言われた。「彼が今死ぬと、直ちに地獄に落ちる。仏に対し怒っているためである」。大神様が同志に対し「わしを恨むなよ」と度々注意された理由である。長者と問答して犬の前世が彼の父親であると言われた。長者が「父は良く布施をして善行を積んでいたから犬になどなるはずがない」というと「彼は増上慢であって、そのために犬に生まれた。信用できないなら帰って犬に向かい『汝が前世で父親であったなら』といっていろいろ命令すれば、犬はその通りにやるだろう。また『私の知らない所に隠した財宝があれば、それを教えよ』といえば教えるだろ。」

長者は帰って教えられた通りにすると、犬はその通りにやり、「隠した財宝があれば、それを教えよ」と言うと庭の一角で『ここ掘れワンワン』とやった。そこを掘り大変な財宝の入った容器を見つけた。長者は喜んで仏の方角を拝んだ。仏の所にニコニコして礼を言いに来た。釈尊は弟子に言われた。「彼が今死ねば、天国に生まれる。仏に感謝しているからである」。大神様が同志に対し「感謝が大切」と度々指導された理由である。

その後長者は仏から因縁因果の詳しい解説をしてもらった。内容は大略すると、当ブログ

「2009-04-27 因果律入門 http://d.hatena.ne.jp/Newshirogarasu/20090427/」とほぼ同じである。要は自分が現実に行ったり言ったり思ったりしたことは霊界に影響し、その影響が霊界を通して自分の未来を決定するということである。又自分の現実は過去の自分にやったことの結果であるということでもある。この霊界の法則(因果律)を説明したのが仏であり、大神様である。この因果律から正しい人間の道を歩む重要性と、そのためにしていいこと、して悪いこと、懺悔の大切さが、仏により、大神様により教えられた。

邪神は己の邪念・邪念とは自己愛

 大神様がご説法でよく説かれるフレーズの一つが、「油断せたら邪神に使われる。邪神は己の邪念じゃで。出てくる邪念を打ち払い打ち払い、死ぬまでかかろと、かまやせん。神のみ肚に合うように心の掃除を怠るな」である。
 邪念とは「地位と名誉、金と財産、見栄と体裁、異性、恋愛などにとらわれ,それに熱中し埋没する」心であり、地位と名誉、金と財産、見栄と体裁、趣味や飲酒などの人間のボケ道具にとらわれる心である。その根底には自己愛と、その上にまとった自我、欲望がある。人間が生きていくには、社会的な役割、職業、収入、財産、家族は必要である。これを追求しないでは、人間の道を歩む基礎ができない。これを生きていく手段でなく、人生の目的と感じるまでに熱中してしまうと、邪念になる。その心に邪神(悪霊)がつく。
 すると他人の迷惑など思いもしない利己利己で我の天下を舞い、行き詰まり地獄に行く。自分の邪念を反省自覚して、それを打ち払い、打ち払いして、常に打ち払いすることが心の掃除である。これを死ぬまで油断しないで続けることが神行。神に行く。宗教活動に熱中しても、その根底に立身出世のような自己愛があると、魂は救われない。心の掃除、つまり自己愛を反省懺悔して減らしていくことが大切と、始めから終わりまで大神様は説き続けた。そしてこれこそが人間には最も難しいことである。天照皇大神宮教を難しい宗教と大神様がいわれる所以だろう。

 人間は常に2種類の霊に支配されている。正しい神と邪の神である。邪の神とは利己心につく悪魔のことで、《世の神》とも言われ、地位・名誉・財産などはかなえてくれても、魂は救わず、地獄に連れ去る《霊》である。利己心にかられて必死の努力をすると、因果律により地位・名誉・財産がもたらされる確率は高まる。地位・名誉・財産は死後、持っていけないものである。しかし神仏が心にないと、この成功も幸せはもたらさない。他人の犠牲の上に築いた成功は、業の種となり、死後地獄に行く原因になってしまう。

 地位があり、尊敬され、名誉もある。大きな富を持ち、人々を支配し、異性も意のままにできる。このような人をAとする。別のBという人は日々神行に生き、常にお祈りを欠かさず、真人間になろうと日々精進している。自分は内心Aにあこがれていないか?反省してみる必要がある。神一つあれば十分と本当に思っているのだろうか?このBに行くには一足飛びには行けない。自分の悪い所を一つずつ直して行って、自分を直さないと行けない。非常に難しいことなのだ。地位があり、尊敬され、名誉もあるが、これに溺れず、謙虚に神仏を敬い祈り、神行に生き真人間になろうと日々精進している人もいる。新渡戸稲造博士が典型であるが、高橋是清翁、土光敏夫氏のように経済・司法・行政の大物にもこのような大人物はいる。Bだから、貧窮した人生を送らないといけないということはない。
 信仰もないのに真人間であり、生涯、正しい人間の道を踏んだ福沢諭吉のような超例外の人もいる。福沢諭吉はあらゆる面で豊かな人生を送った。

 人間には運命がある。これは前世の因縁により出てくる。大きな試練に直面せざるを得ない時が来る。その時、自分の自己愛と戦い、それを克服することでしか生きる道がないのがわかる時が来る。この試練に勝てるか、負けるか、これが天国行きか地獄行きかを決める、このことが明瞭に分かる時が来る。その時でさえ、自分の自己愛を克服するのは困難で、天照皇大神宮教のお祈りで大神様の慈悲にすがるしか生きる道がないの《人間》、つまり我々凡人である。《試練は神への導き》であり、自己愛を反省懺悔するチャンスなのだ。

 普段でも人間の心は上を向くか、下を向くかしかない。磁石がN極を向くか、S極を向くかしかないのと同じである。上とは、利他,公共の利益、国、神の教え、隣人愛など神の属性が上になり優先され、利己・自我が下になる状態である。下を向くとは、現実世界の利害に夢中になり、神の教え、他人の気持ちなどに気を配る余裕もない状態である。正しい宗教を持たない人は、下を向く事が多い。これがひどくなると、不倫に熱中したり、酒・麻薬に溺れるたり、盗みに快感を覚えたりするようになり、究極は《人間》でなくなってしまう。
 この下を向く性向が邪念。
 邪念が続くと、悪霊がつく。ギャンブル好きが高じると、ギャンブル狂の死んだ霊がつき、ギャンブル狂になる。この死靈に使われ、正常な人間の判断ができなくなり、身を滅ぼし、家族を苦難に引き込む。
 強い劣等感に苦しんできた人が、少しの希望をもつと、それに突進する。収入と価格の比率で、買えるハズのない高価な住宅をローンで買い 、その後ローン破産する人は多い。また退職後、全く採算の取れない商売を始めて破産する人も多い。収入、支出、預金・負債残高推移、これらの簡単な算数がなぜできないのか、周りの人は不思議に思う。本人は苦しい現実が、新しい状況の中で解消される《夢》を見て酔っている。
 また平穏な家庭生活をしてきた人が、何かのきっかけで不倫に走り、自分・相手の人生をぶち壊し、家族の人生に苦難をもたらす例も多い。なぜ冷静に損得が見れないか、周りの人間は不思議に思う。人間の道を守っていた時には、家庭の一員で社会的信用もあったのに、道を踏み 外せば、嘲笑の的でしかない。これは悪霊が憑き悪霊に使われたからであろう。
 盗心のある人は盗癖がつき、常に如何に上手く盗もうかと考えている。すると泥棒で死んだ霊がつき、大泥棒になるが、地獄に行く。人間本来の心が泥棒の霊に覆われ、自分の人生が、泥棒の霊に使われてしまう。酒好きの人が毎日少しずつでも晩酌して習慣になると、酒乱で死んだ人の霊がつき大酒飲みになり、中毒の酒乱にまでなってしまう。人間の善良な性質までなくしてしまう。 

参照

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大神様も使った?分身の術・瞬間移動

孫悟空は分身の術で毛を分身させ無数に分かれて大勢の敵と戦い、猪八戒は3体に分かれて戦ったが、沙悟浄に分身の術はなかった。これは『西遊記』にでてくる話で単なるお伽話と思われている。しかし宗教・霊能者を深く調べると、分身の術を使った人が多数みつかる。釈迦はもちろん、チベットの高僧、1945年頃の日本の霊能者まである。多いと8箇所に同時出現したりしている。瞬間移動も似た能力で何箇所もに瞬間移動で現れれば、分身の術と人々は思うだろう。

大神様は神様だからなんでもできた筈で、機縁が熟した人には神通で現れることを教えたようだ。色々な場面で、たまたま大神様にお会いできたと思っている同志が多い。しかしつぶさに見ると、ジャストのタイミングで神通により現れたとしか考えられない例が多数ある。これがはっきりとしている例もある。九州の歯科医小河清里さん宅に治療で大神様が滞在されていたある日、大神様は散歩にでられ、長く戻られなかった。小河さんはお迎えにあがろうとして、見当をつけた方向で出かけていった。川沿いの道である。そこには大神様はいられなかった。おかしいと思っていると、不意に目の前に、にこにこして大神様は現れた。小河さんは視力には自信があったため、大神様は神通で姿を隠したり、現れられたりできることが良くわかった。小河さん宅に大神様は21日滞在された。

東京の同志Nさんが大神様を訪ねたとき、若神様の奥様は「大神様はお出かけで不在です」と告げられたが、直後に息を切らして2Fの階段から大神様が降りてこられてお話できたことがあった。
別の例ではロサンゼルスの守田とく氏のケースがある。彼女宅に大神様は何と延べ60日近く滞在されている。彼女は高齢だった。ある日伝道で方方歩き、疲れてここから家まで、ずいぶんあると思った。その時自宅前に「着いていた」(瞬間移動)大神様に申し上げると、大神様は自分は度々そいいうことが起きており、紀元前の修業中からあった。と言われた。別のガーデナ平原支部長(桑原)のケースでは、山道で車が崖に転落した時、「フワ」として谷の対岸の道路脇に車が軟着陸して、自分も車も無傷だった例もある。
他にもある。若い同志福本さんは大神様の大島巡教に同行しての帰り(紀元2年10月23日)、船が柳井港につくと真っ先に飛び降り、柳井駅の鉄道切符売場に急いだ。すでに大神様は切符を買われており、ニコニコされていた。若い自分が真っ先の筈とびっくりして申し上げると、「世が末になったら人間が鳥のように飛ぶことができると書物に書いてあるというた同志がおる」とお笑いされた。(天声80号P51)柳井在住の霊能の同志君国さんはこの時、大神様と船で最後まで残って話をしており、大神様が瞬間移動で飛ぶところを見ている。この話というのが「世が末になったら人間が鳥のように飛ぶことができる」という話であった。大神様の修行中、自転車ごと移動した話

(ご説法:紀元18年5月1日:天声197号P8)
わしが丑の刻参りするのに、ここで「今夜おれが連れて参ちゃるけえのう」ちゅうて肚が言うの。目をつぶれ言うて、門で目をつぶったら、すうすう、こう金色のような道が開けて、それをさあさ、さあさ自転車に乗って行って「ストップ」言われて目を開けてみたら、八幡様の下まで、鳥居の所へ行っちょる。ここ(道場)から自転車に乗って(八幡八幡宮まで)行ってみなさい。半道たあいわんあるじゃろう。それ(2KM以上)をつい金色の道をすうすう、ひとつも怪我せん。「ストップ」ちゅうてやる。

(注)君国陽陰は日本哲学院の副学長の位をもらっていたが、日本哲学院の教祖は加藤泰山という霊能者である。大神様は加藤泰山を指導したのは宇宙絶対神の13番目の弟子で、彼の書いた本は神が書かせたと言われたように、本物であった。彼の口述録「泰山教学講授録 初門の巻中編」昭和7年発刊 P64に同じような話が紹介されている。フランスでAがBから「すぐこい」という電報を受けたので、自転車で駅に駆けつけたが汽車は出た後だった。次の汽車まで時間があり、その時間までにはBの所まで自転車で行ける距離であった。自転車で行くと、不思議に車輪の回転が早くなり、足をペダルに置いておくことができなくなり、両足を離しハンドルだけを握っていた。ますます加速し、その後のことは覚えがなくなった。一方Bは自宅の事務室で書類を調べていたが、大音響がして顔をあげると、テーブルの反対側にAが腰掛けていた。Aも目を開け驚いていた。AもBも、Aがどこから入ってきたかわからなかった。その時ボーイが「ご主人様、表門が閉じられているのに、門内に自転車が一台あり、乗ってきた人は見当たりません」と言ってきた。これをBがフランスの雑誌に連絡して掲載され、それを日本の雑誌が転載した。

そのP67には霊力が高まれば瞬間移動は可能だが、自分(加藤泰山)は未熟でまだその域に達していない。罪悪があると身体は重くなり、真人間になり自分の罪悪を滅尽できれば宇宙の大霊の力が身体に満ち自由自在に空を飛べる。と書いている。大神様が木から飛び降りるのを受けた同志は、大神様の体の軽さに驚いた。小川を渡る時大神様を抱えたりした同志も同じ体験をしている。

加藤泰山の記事

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元旦のご説法に体に羽が生えるという箇所がある。霊界の天使になるという意味。

今年できたる神の世にゃ正月もなけりゃ盆もない。祭りもなければ彼岸もない。着るものもなけりゃ食うものもない。えらい寂しい国ですね、と違います。食うものは天然に恵まれて、着るものはこんな三ぼろ四ぼろと違います。体にゃ立派な羽が生え、朝から晩まで歌うて舞うて行こうや精神修練道場へ、こんな神世ができますよ。

ギリシャ神話の神々・イスラム教の天使・キリスト教の天使に羽が生えた絵が多い。羽が生えるとは、霊界で理知が発達した天使が神の教えを聞いて魂の自由を楽しんでいる状態を現しているようだ。天照皇大神宮教の洋裁学校の某卒業生が、大神様がご説法している道場に入る前、お祈りをしていると、上空を飛び回る、薄い着物を着た羽の生えた天使が見えた。ナイジェリアのエサンも翼に乗った体験を天声206号に書いている。

無我の歌で歌った人(井上篤子)もいた。ああ麗しの神の国、ああ有り難や神の世に生まれぃて、尊き神教頂いて、人間道を諭されて、地上天国住まいの出来る我が身の有り難さ、昔々のその昔、美保の松原で天女が舞いし羽衣の舞とはこの舞よ、羽衣を心につけて舞えば楽しい天国よ、、、(広島県北地区史P74)  

(注)孫悟空、空を悟った孫さん。無我のバカに至った最高レベルの天使。天的天使。

猪八戒、菩薩戒である8戒を守る仏教徒、聖人になるには2戒足らない。人間臭さが抜けない煩悩の止まない修行途上の人。自然的天使。

沙悟浄  を悟ったさん。6魂清浄を達成した真人間。聖人の天使。霊的天使。

(注)天界(天国)の3層構造。高い順に、天的天界。霊的天界。自然的天界。

大神様が、神仏の道、因縁因果の道、世渡りの道、を説く(教える)と言われている。

天的天界に住むのが天的天使。この天界の人への教えを「神仏の道」で示されている。

霊的天界に住むのが霊的天使。この天界の人への教えを「因縁因果の道」で示されている。

自然的天界に住むのが自然的天使。この天界の人への教えを「世渡りの道」で示されている。

 

 

本当に怖い生霊

人と喧嘩をすると、祟られることがある。相手の恨む心が自分に災いする。これを生霊という。この生霊により、ガンになったり、交通事故に巻き込まれたり、家族に不幸がきたり、いろいろ不運になるらしい。略奪婚のように相手の家庭を破壊して結婚すると、幸福な家庭を築くことは難しい。相手の元配偶者と子供から強い生霊がくるからだろう。契約した工事代金を踏み倒して、生まれた子供がオシになったり、無理やり値切って買ったものを食べてお腹が痛くなったり、生霊の例は気づいていないだけで非常に多い。

相手の霊能が強いと、自身は気づいていなくても生霊は「犬神」になるようだ。その人の前世が宗教的である(僧、神主、司祭、尼、修道女、巫女など)と霊能が強くなるのだろう。犬神は霊界では小さなハツカネズミのように見える悪霊らしい。大神様のご説法にも度々出てくるし、天声に書いた同志もいた。犬神につかれると生死に関わる病気になったり、機械が故障したりするようだ。大神様は犬神を飛ばしている人を指摘したこともあるし、犬神を追い返したこともある。追い返される犬神は、大神様に噛み付こうとしたりして抵抗することもあったようだ。追い返されると、発信元の人が病気になるようだ。呪い7分(70%)は我が身にかかる。と昔から言われている通りのようだ。発信元が自分の家族であることも多いようだ。

大正期に出版された加藤泰山の本でも生霊の話がでている。ある村で伊勢神宮参拝に行った時、ひとりの男が行方不明となり、何年も戻らなかった。そこで妻は葬儀を出し、一生懸命働いて子供を育てていた。数年後その村から伊勢神宮参拝に行き帰った男が、行方不明だった人に会った。彼は岐阜で若い女と暮らしていて、自分は2日も泊めてもらいもてなされた。と話した。それを聞いた妻は意識不明となり眠りつづけたが、翌朝意識が目覚めると、食い殺してやった。といい、口には血がついていた。その数カ月後出奔していた男が帰ってきたが、一緒にいた女が或夜悲鳴を上げ、見に行くと何者かに噛み殺されていた。と話した。妻の生霊が襲ったのである。

同じような話を大神様が説法されることもある。ある女に惚れた男は有力者であった。女に許婚の男がいたため、その男に罪をでっち上げ、刑務所に長期間閉じ込め、その間に女と結婚した。男は刑務所で彼らを恨み続け、その生霊により、間もなく彼ら夫婦共に死んだ。男の生霊が殺したのである。

商船学校で首席で卒業した人(福富の長男)が、同級生の妬みにより気違いにされた。現象としては、祝酒を飲んで帰る途中、同級生の兄に殴られて転び頭を打って気違いになった。霊的には生霊が気違いにしたと大神様は言われた。その28年後、本部建設のご奉仕中ハシゴから転落して骨折、大神様に手当されたことで正気が戻り、隣村に養子に行き,まともに暮らした。ご奉仕の徳により、大神様が犬神を払われて助けられた。

犬神とは呪い呪術の一種で狙った相手に悪霊「犬神」を付ける術で古代から行われてきた。「捜神記」という4世紀の古代中国で書かれた本にも出てくる。この呪術を使って皇帝などが暗殺される危険から、厳しく禁止され、この呪術に関することは死罪に定められた。日本でも各地で密かに千年以上も行われてきたようだ。戦後でも四国にあったようで、天声197号の青木さんの記事に言及されている。

呪い呪術は仏教にも記述がある。死霊を呼び出し相手を死霊に殺させる。これを仏教では殺人罪に定めている。現代ブラジルでも死霊を降霊儀式で呼び出し使うマクンバという呪いは広く行われており恐れられている。藁人形を使ったり、人形を使ったり、紙に書いた図式を使ったり世界各地で同じような生霊の強化法が編み出され、花・酒類・魚・肉などのごちそうや生贄、香料、火、など各種魔法を混ぜたりしている。これらの魔法は強力であると想像できる。しかし呪い殺された人の霊は、死後に霊界で気づき呪った人に復讐をする。このため呪うと結局自分に跳ね返る。

このように自分の気づかない内に恨まれ各種災難に会うことがある。ここからも正しいお祈り「名妙法連結経」を日々唱え、悪霊・生霊の済度をしていくことが自分の人生を全うするためにも大事であると大神様は説かれた。