砂糖と塩

(蟻を塩と砂糖の間に置くと、蟻は必ず砂糖に向かう。人間も似た所がある。)という趣旨の説法がある。人間は心地よい物に向かい、不快なものは避ける。自分に好ましい物は、自分に必要であるものだ。お腹が空けば、食物は美味しくなる。乾けば、水が旨くなる。塩分不足だと、塩辛いものが美味しい。この生理的に必要な物を欲求するだけでは罪はない。しかし人間の特質として、空想を膨らませ、架空の想像の世界を自分の心中に創る能力がある。自分の快感を妄想の世界で膨らませ追求しだすと罪が生じる。快感が自分を地獄に引っ張っていく。
(砂糖の皿が沈み出すと、蟻は塩の皿に乗り替わる)という説法が続く。自分が何に快感を感じているかを反省し、このままでは地獄行きだと気づくと、神行が始まるという意味か。
酒、煙草、に快感を感じ、健康に良くないことを十分知りながらやめられない人は多い。一番極端なのが麻薬である。糖分・炭水化物に感じる快感は糖尿病に引きずり込む。人の理性は快感の前には実に弱い。
お金はあって困ることはない。全くないと生活できないし、不必要な苦労もする。そのためお金に敬意を払い大事にする必要がある。自分の挟持が持てるように、老後にも子供に頼らなくて、不自由しないだけの貯金を持つよう大神様が指導されたこともある。金がなくなると徳もなくす。とも言われた。しかし不必要にお金を愛し、富に快感を見出し始めると害がでてくる。他人の金に欲望を感じれば泥棒の始まり。自分が得をしようというのが高じれば、支払うのが嫌で万引きの初め。楽して稼ごうが高じれば、ギャンブルに快感を見出したり、売春に走り、身を滅ぼす。人の理性は快感の前には実に弱い。
人に優越することに快感を感じだすと、利己中心の始まり。これは幅広いし根深い。自分に実質に害を為すものを憎むのは自然である。これが高じて自分の優越感を阻害するものを憎む。嫉妬である。いつも褒められたく、名誉欲は高じる。尊敬されて快感を味わう。自分の意見に賛同する人を愛し、反対する者を憎む。人を從わせ支配することに快感を感じる。自分が可愛く、ババを引くのは絶対嫌。この行き着く先が自己愛性人格障害という気違いである。大神様は、(我儘が高じてヒステリー、更に進んで幽霊がつくと、気違いになる。)と説明した。この方面でも人の理性は快感の前には実に弱い。
異性に惹かれる、異性に好かれたいは動植物の本能である。人間は社会動物でもあるから、その社会で許容される範囲で家庭を持ち、子孫を増やしていく、これは自然である。これが暴走して、女好き、男好きが高じると、人生が地獄そのままになっていく。空想、妄想の世界でこの性質が野放しになると人格の不潔臭が漂い出るまでになる。鳥・魚・昆虫・各種高等動物の求愛行動には儀式化された一連の手順と匂い(プロトコルとフェロモン)がある。人間にも潜在意識下に各人各様の”プロトコル”が埋め込まれている(因)可能性がある。何かの偶然にこれが合致(縁)して心の鍵が回りドアが開くと、”何故あの人が何でこんな狂った事を”という恋愛暴走が起きる。象は発情期になると性質が一変、大変危険になるそうだ。人間も恋愛で熱くなれば、大神様がいう(恋愛とは発情期の猫のようなもの)という教えで心に水を掛けることが大事なのだろう。人の理性はこの時、ほぼ無力であるが神教は無力ではない。
男女の愛情は宗教でも古くからの大問題である。久米の仙人は、女性を見て、悟りの境地から直ぐに落ちた。明恵上人は自分に恋する女性を諦めさせるため、片耳を切り落とした。アーナンダに恋した女性はマータンギの秘術(魔法)で誘惑しようとし、自室に誘い入れる所まで行きかけた。河口慧海にも玄奘三蔵にも同種の「ご試練」があった。そもそも釈尊成道の最後の試練は悪魔の娘3人の美女による誘惑であった。大聖人においてさえ起こったことが、我々凡人に起きないはずはない。本性が現れるのは、本性を自覚しぶちもぐチャンスでもある。ある人は書いている。「楽しい世界と、虚しい世界が現れる。その対比が鮮明な時、その楽しさ、虚しさの由来が、ある人であることが自覚できる。人の心を照らす光源は愛でもある。愛が心の世界を照らす時が楽しく、愛が照らさない世界は虚しい。」心は盲目である。善悪を教えられない時、心は無操縦で放浪し、神の許さない愛を抱え込んで、行動はねじれていく。
「好いた、好かれた」の本能に基礎を置き、自分の嗜好、価値判断などの因縁により、この相手に対する好ましい感情(愛)が心に育つ。木や雑草の茂みが育つように心を覆い尽くようになる。これが恋愛に熱中した心であり、心が熱愛の牢獄に入った状況である。ここで勢いの赴くままに行動に走れば、不倫・邪淫になりこの世の地獄が現出する。この果が悪いことを見れば、それを招く、霊界、心界の原因、恋愛が悪霊由来であることが分かる。さらにその大本が「好いた、好かれた」不清浄であることが分かる。心の牢獄はその人、自らの心が作り出していることに気づけば、この牢獄を消すのもその人の心を清浄にすれば可能なはずだ。「相手を見てドキドキする時、何がドキドキさせるかを反省すると面白いことが見えてくる。相手を地獄に落とせと命令する鬼が現れ、自分の良心が恥じてドキドキしていることが分かる」こう話した人もいる。ここから、恋愛も因縁により出てきていることがわかる。これを端的に表現したのが、「千と千尋の神隠し」の主題歌「いつも何度でも」だろう。「繰り返す過ちの度に人はただ空の青さを知る。」などなど。因縁を切るには、お祈りが大切だ。すると自分が恋愛と思っていたものが大いなる幻影・妄想にすぎなかったことが自覚できよう。自分の心を操り、むなしい実体のない空想に引っ張る心中に住む怪物に気付く。その怪物が「自分(小我)」である。因縁をまとった悪しき自分、その因縁からくる願望が虚構の世界を作り、自分を使って遊ばしている実態が見えよう。気付けさすのが、神教のすごさである。
人が特定の異性に心の焦点を合わせてしまうのは、鳥とか馬などの育児期の特殊能力と関係するかもしれない。皇帝ペンギンの零下50度の極寒での子育てでは母は群れの中から我が子を見つけ餌を渡し、我が夫に子を託す。夫も同じ。常にライオンの危険にさらされているシマウマの群れでも母親は我が子を見つけ保護するし、子供は母を常に見失わないようにしている。これが生存のキーファクターである。これらの動物では、特定個体に対する「異常」な関心を持続的に持つ能力が観察できる。人にもこの能力は埋め込まれているだろう。恋愛もこの能力のせいかもしれない。コンピュータでモデル化するのも反省の手段になる。想い続けるのは、ループしているプロセスが走っている状態。このタスクを発生させるきっかけ、イベント条件は何か、これを考える。自分の潜在意識を意識してみる。タスクコントローラーは誰か?コイルに磁石を近づけると電流が流れる誘導電流。このような現象かもしれない。これが「好いた」状態。一方、この状態をもたらした相手にも影響が出る。自分に夢中になる相手を見て歓喜、誇り、嫌悪などの感情が沸き起こる。これは自己愛由来であることが多い。これが「好かれた」不清浄。自分も「好いた」状態になると共鳴現象が起こり、想い合になり相互がコントロール不能の恋愛暴走になってしまう。
6魂不清浄が同時に複合すると事態はより深刻になってしまう。利害得失と愛憎、自己実現と愛欲など色々が複合する。人は自分の人生に虚しさを感じる時がある。自分の願望・夢が創る「理想の相手との理想の人生」と比較して現実の自分・配偶者・家族に無意識下に不満が堆積している人は多い。「理想の相手」と空想できる人に遭遇して恋愛が起き、積もった不満と愛おしい自分という薪が多いほど火は燃える。人間はこうして畜生道、地獄に落ちてしまうことが多そうだ。根本解決は「我」を捨てることである。「人に我(われ)なし。法(自然)に我なし。」この仏教の聖句と「利己を捨てなきゃ救われない。捨てておくれよ己の利己を。」という神言はここにおいて一致する。
人間には左脳(愛・感情・情念・意志・嗜好)と右脳(理解・理性・理知・分析・反省)が分かれている。この価値判断が右・左で矛盾する時、因縁があれば、常に左脳の判断が勝つ。酒を飲みたいと左が主張し、右が酒はいけないと止めても飲んでしまう大酒飲みが典型。不倫がいけないと右が止めても、因縁が引っ張れば不倫してしまうのも同じ。こういうのは非常に多い。いくら理性が働いても、恋愛が起これば阻止は困難だ。この時、神の言葉だけが、左脳の暴走を止められる。自分の愛に勝てるのは自分の理性でなく、神の命令である。祈りと懺悔だけが因縁を越えられる。
脳科学によると、熱愛中の人と麻薬中毒患者の人とは脳状態が酷似しているらしい。脳の報酬系ドーパミンなどの快楽物質が大量に放出され、理性も何も働かない状態という。細胞内小器官などでは膜に突起や穴があり、その形に合った物質がくると膜を開いて取り込む。人の心にも同じような仕組みがあり、声のトーン・速さ・柔らかさ・表情・性格・理性の質・霊性などの「形」が合うと、脳の報酬系に快楽物質が放出されるのかもしれない。こうなると恋愛ハイになり、「自分を失い、相手の事を考えずにいられない」状態に落ち込んでしまう。この状態はまさしく「霊に憑かれた状態」であり熱愛地獄の邪神のおもちゃになっている状態。潜在意識とは自分の邪念である。
「油断せたらこう曲がってくねって落ちて、邪の神に使われて。邪神は己の邪念、自分の邪念があるけえ、邪神(悪霊)がひっついちゃ邪神のおもちゃになる」
(6魂清浄にしなさい)というのは、この自分を引っ張る快感を分析反省し、克服しなさいという意味だろう。スウェーデンボルグのいう「愛を清める」というのと同じで、因縁を切るとも同義のようだ。妄想に時間が関係するものがある。体や環境は時間の進行に対してどんどん変化し続ける。しかし脳の認識は、その変化に追いつけず、「補正」をかけてバランスを保とうとする。この補正済みの自分と現実の自分とのギャップが妄想の原因になる。