邪神は己の邪念・邪念とは自己愛

 大神様がご説法でよく説かれるフレーズの一つが、「油断せたら邪神に使われる。邪神は己の邪念じゃで。出てくる邪念を打ち払い打ち払い、死ぬまでかかろと、かまやせん。神のみ肚に合うように心の掃除を怠るな」である。
 邪念とは「地位と名誉、金と財産、見栄と体裁、異性、恋愛などにとらわれ,それに熱中し埋没する」心であり、地位と名誉、金と財産、見栄と体裁、趣味や飲酒などの人間のボケ道具にとらわれる心である。その根底には自己愛と、その上にまとった自我、欲望がある。人間が生きていくには、社会的な役割、職業、収入、財産、家族は必要である。これを追求しないでは、人間の道を歩む基礎ができない。これを生きていく手段でなく、人生の目的と感じるまでに熱中してしまうと、邪念になる。その心に邪神(悪霊)がつく。
 すると他人の迷惑など思いもしない利己利己で我の天下を舞い、行き詰まり地獄に行く。自分の邪念を反省自覚して、それを打ち払い、打ち払いして、常に打ち払いすることが心の掃除である。これを死ぬまで油断しないで続けることが神行。神に行く。宗教活動に熱中しても、その根底に立身出世のような自己愛があると、魂は救われない。心の掃除、つまり自己愛を反省懺悔して減らしていくことが大切と、始めから終わりまで大神様は説き続けた。そしてこれこそが人間には最も難しいことである。天照皇大神宮教を難しい宗教と大神様がいわれる所以だろう。

 人間は常に2種類の霊に支配されている。正しい神と邪の神である。邪の神とは利己心につく悪魔のことで、《世の神》とも言われ、地位・名誉・財産などはかなえてくれても、魂は救わず、地獄に連れ去る《霊》である。利己心にかられて必死の努力をすると、因果律により地位・名誉・財産がもたらされる確率は高まる。地位・名誉・財産は死後、持っていけないものである。しかし神仏が心にないと、この成功も幸せはもたらさない。他人の犠牲の上に築いた成功は、業の種となり、死後地獄に行く原因になってしまう。

 地位があり、尊敬され、名誉もある。大きな富を持ち、人々を支配し、異性も意のままにできる。このような人をAとする。別のBという人は日々神行に生き、常にお祈りを欠かさず、真人間になろうと日々精進している。自分は内心Aにあこがれていないか?反省してみる必要がある。神一つあれば十分と本当に思っているのだろうか?このBに行くには一足飛びには行けない。自分の悪い所を一つずつ直して行って、自分を直さないと行けない。非常に難しいことなのだ。地位があり、尊敬され、名誉もあるが、これに溺れず、謙虚に神仏を敬い祈り、神行に生き真人間になろうと日々精進している人もいる。新渡戸稲造博士が典型であるが、高橋是清翁、土光敏夫氏のように経済・司法・行政の大物にもこのような大人物はいる。Bだから、貧窮した人生を送らないといけないということはない。
 信仰もないのに真人間であり、生涯、正しい人間の道を踏んだ福沢諭吉のような超例外の人もいる。福沢諭吉はあらゆる面で豊かな人生を送った。

 人間には運命がある。これは前世の因縁により出てくる。大きな試練に直面せざるを得ない時が来る。その時、自分の自己愛と戦い、それを克服することでしか生きる道がないのがわかる時が来る。この試練に勝てるか、負けるか、これが天国行きか地獄行きかを決める、このことが明瞭に分かる時が来る。その時でさえ、自分の自己愛を克服するのは困難で、天照皇大神宮教のお祈りで大神様の慈悲にすがるしか生きる道がないの《人間》、つまり我々凡人である。《試練は神への導き》であり、自己愛を反省懺悔するチャンスなのだ。

 普段でも人間の心は上を向くか、下を向くかしかない。磁石がN極を向くか、S極を向くかしかないのと同じである。上とは、利他,公共の利益、国、神の教え、隣人愛など神の属性が上になり優先され、利己・自我が下になる状態である。下を向くとは、現実世界の利害に夢中になり、神の教え、他人の気持ちなどに気を配る余裕もない状態である。正しい宗教を持たない人は、下を向く事が多い。これがひどくなると、不倫に熱中したり、酒・麻薬に溺れるたり、盗みに快感を覚えたりするようになり、究極は《人間》でなくなってしまう。
 この下を向く性向が邪念。
 邪念が続くと、悪霊がつく。ギャンブル好きが高じると、ギャンブル狂の死んだ霊がつき、ギャンブル狂になる。この死靈に使われ、正常な人間の判断ができなくなり、身を滅ぼし、家族を苦難に引き込む。
 強い劣等感に苦しんできた人が、少しの希望をもつと、それに突進する。収入と価格の比率で、買えるハズのない高価な住宅をローンで買い 、その後ローン破産する人は多い。また退職後、全く採算の取れない商売を始めて破産する人も多い。収入、支出、預金・負債残高推移、これらの簡単な算数がなぜできないのか、周りの人は不思議に思う。本人は苦しい現実が、新しい状況の中で解消される《夢》を見て酔っている。
 また平穏な家庭生活をしてきた人が、何かのきっかけで不倫に走り、自分・相手の人生をぶち壊し、家族の人生に苦難をもたらす例も多い。なぜ冷静に損得が見れないか、周りの人間は不思議に思う。人間の道を守っていた時には、家庭の一員で社会的信用もあったのに、道を踏み 外せば、嘲笑の的でしかない。これは悪霊が憑き悪霊に使われたからであろう。
 盗心のある人は盗癖がつき、常に如何に上手く盗もうかと考えている。すると泥棒で死んだ霊がつき、大泥棒になるが、地獄に行く。人間本来の心が泥棒の霊に覆われ、自分の人生が、泥棒の霊に使われてしまう。酒好きの人が毎日少しずつでも晩酌して習慣になると、酒乱で死んだ人の霊がつき大酒飲みになり、中毒の酒乱にまでなってしまう。人間の善良な性質までなくしてしまう。 

参照

umou.hatenablog.com