生き証人

「役座が知らず識らずに50年にわたって踏んだ道を、我汝らを証人にせん。今、立派な証人付きで説いているのが役座の口なれば、付いておいでりゃ案内しますよ。天国に。」と度々大神様は歌われた。大神様が説法で説かれたことの、一つ一つが、事実に基づき、それを証言する人々がいる。説法内容は、すべて自分が実際に行った事跡に基づき、それを多くの人々が見てきた。という事を強調された。自分には釈迦・キリストと同じく宇宙絶対神が降臨している。この口からでるのは、神直々の教えであり、お祈りは神が人類に授けたお祈りであり、自分の行動のいちいちは、神直々の指示のままである。従い当然ながら、あらゆる奇跡も生じる。天照皇大神宮教すべては、宇宙絶対神のご意思から生まれている。(キリスト教新約聖書に同じ事が書かれており、当時起きた真実がそのまま書かれていた、と気づけるのは大神様の事例を多く知った後だろう。仏教のお経のジャータカ物語集なども釈迦の生き証人の記録だったと想像できる。)
これらは天照皇大神宮教の内部の人間には当然のことと信じられている。生書、天声を良く読めば証言記録は満ちあふれており、外部の人間でさえも、信じられる。すると同志になる。ただ天声は700冊以上もあリ、書庫で推定約4mになる。(信じられるようになるには、生書に加え、昔の天声なら数冊か数十冊でも十分かもしれない。霊感が優れていると、大神様の写真一枚見ただけで神だと直感した人もいるし、数ページの紹介パンフレットだけで神と信じた人もいる(チトリー)。直筆の手紙一枚で判る人もいる。)
大神様は、口で言うだけでなく、ちゃんとそのことが事実で裏打ちされている。これが偽予言者でない証拠である。この証拠は大切で、これらは後世に伝えられないといけない。生書・天声以外の記録も膨大にある。ご記念堂の建設、旧道場保全、恩額山整備、説法テープ保存、映像保存と整理、など教団本部は、大神様の事跡の保存に大変な努力をしてきた。
生き証人である人々のなかに、積極的に証言記録を残そうと努力して、天声に度々投稿した人もいたし、多くの人びとに、証言記録(自身の体験)を話した人もいた。支部の成り立ちなどに焦点をあわせて、100号以前の天声と131号には支部めぐりというコーナーがあり支部の紹介が詳しくされていた。これは支部史の雛形ともいえる物であった。これを発展させて、地域の証言者(大神様と直接、接した体験談)をまとめて、後世に本として残そうとした人々がいた。「大神様のご足跡と生き証人」という本が大神様昇天後10年目(紀元32年)に光支部から出版された。大神様より直接指導を長年度々いただいた地元同志の証言記録が満載で、実に驚くべき内容である。
室積支部から日英併記で「大神様のご足跡」55ページの小冊子が出されたのは紀元40年(昭和60年)である。この本の特色は、釈迦の再来ともいうべき、室積で起こされた大神様の奇跡に焦点が合わされ、それを極めて詳細に記録している点である。英語が併記されている理由の一つには、この地から、アメリカに移住し国籍まで変えて神教伝道に尽くした人々がいることが推定される。
一方、若人と呼ばれる20代の人々が、「若人だより」という機関紙を地区持ち回りで編集した。その若人が、自分たちの地区の成り立ちをまとめて発表し、そこから紀元30年、「大阪地区史」という小冊子が生まれた。この地区史とご足跡と生き証人という両面で編纂された本が、大神様昇天後19年目に広島県北部地区から「大神様のご足跡と生き証人」として出版された。これは赤垣武雄氏が夢で大神様より、「後継者への何よりの真心の贈り物だから残して置け」という神言をたまわり、広島県北部での大神様巡教記録と、そこで起こった奇跡、触れて救われた人々の証言を集めたものである。体験者のうちには、昇天したり、高齢で記憶が曖昧になったりしてきている人もいて、心血をそそがれた大神様のご指導が忘却の彼方に埋もれ去っては真に申し訳ないの一念で作られたようだ。
紀元45年兵庫地区史、紀元47年福岡地区史、50年大分地区史、52年呉地区史、大田支部史、53年広島地区史、下松支部史、55年徳島地区史が出版された。これ以外にも岐阜支部史など多数あるはずだが、私が見れたのはこれだけである。地区史・支部史(大阪地区史、室積支部史以外)はいずれも、200-300ページもあり、自費出版で、200万円ー500万円ぐらいはかかっていそうな立派なものばかりであった。篤志家が多数いたことが偲ばれる。いずれの地区史・支部史にも貴重な資料と証言記録が多数載っている。例えば、大神様の御像とそっくりな、大神様の写真(紀元5年)があったりする。天声にも載らなかった膨大な体験記録や奇跡の一端が、生き生きと語られていて、驚くべき内容ばかりである。
例えば神歌は大神様ご自身が作詞・作曲されたと伝えられてきたが、その経緯もわかる。Aさん夫妻は紀元13年12月(手記では14年12月と誤記されている)初旬一週間の予定で本部に来るよう言われてお参りした。大神様は「この正月にわしの歌を同志に歌わせようと思うておる」と仰せられ、神歌の歌詞を渡され作曲するよう命じられた。Aさん夫妻はピアノが弾ける程度で作曲などしたことはなかった。最初の2日間は責任の重大さに動揺し、焦りで頭に血が昇り何も手がつかなかった。大神様は色々と歌いになられご指導された。しかし作曲などできる訳がなかった。結局これまでの大神様の神歌説法のテープを聴きまくり、大神様が直前に謳われ録音された神歌を音符に移すことで楽譜に仕上げることができた。一旦帰宅し、清書して楽譜を提出させていただいた。A夫人はこの時妊娠中であったが、このご奉仕により、Aさん夫妻の長男が流産する因縁と、産後3年寝たきりになる筈であったのを救われた。(注)神歌が最初に歌われたのは紀元14年元旦。奉答歌が歌われたのが紀元15年1月2日ご慰安日である。
些細のことでも、事実の裏打ちがある。例えば、大神様が説法で、お釣りを計算して咥えて帰る利口な犬の話をされたことがあったが(生書2:P575)、これを見られたのが、紀元11年5月26日別府(乙原ケーブルカーの遊園地)でのことであったことが判る。「じゃがのうおサヨ、なんぼう賢うても犬じゃ悟ることはできんのぞ」と肚の神は言われた。魂の遍歴で人間として生まれて来ている今しか、魂を磨けるチャンスは無いと言われた。地区史・支部史は編纂した人やグループの特色があり、多面的に神教を理解できる気がする。家族何人もの手記が並べて掲載されていることで、神教が家庭を家族をどう変えて救っていったかがわかる。また家族でも神教が理解できない人も出ることがよく分かる。神教が観念でなく実際の生きた姿として実感される。
大神様の一挙手一投足が現実世界に決定的に影響し、人の生死も自在にされる事を見た人々の驚きの証言も多々ある。要するに、神様というのはどんなものなのかを会って見た新鮮な驚きである。神というのを人間の想像や願望で作ったのとは全く違う神様がある。一人ひとりの人間がみる神の姿は極々一部にすぎないが、多く集まれば、より全体像としての神様が想像できるだろう。多くの同志の魂の遍歴の記録、行動の記録、人生も書かれており、何人もの「八百万の神」になられたであろう人々の記録もある。