素麺の味

暑くなるとソーメン。ソーメンと言えば揖保乃糸兵庫県揖保郡の名産品である。この地方播州からも神教の有力な同志が多数生まれた。この地に神の種を蒔いたのは赤松円成(後に円城)という真宗の僧侶である。彼は敗戦直後の日本をどう立てなおそうかと悩み抜いていた愛国者の熱血漢であった。昭和21年九州・耶馬溪に母の法事に行く途中、列車の中で叫んでいた大神様を見かけ、この方こそ本物と感激。九州から大神様に手紙を出し、参拝の許可をもらい、帰途田布施で下車。大神様のご指導を受けた。弟子にして欲しいと頼むも、断られた。神教は職業を持ち自活し、神行する原則であるからという理由であった。彼は真宗の坊主として、それを職業として、神行して、神教を真心持ちに伝道していくように、というご指導であった。彼は何十年もそれを実行したようだ。2日間田布施にいて帰宅。大神様に礼状を出している。
名妙法連結経、名妙法連結経
ああ、ありがたやありがたや、神の恵みの尊さよ。神の力の偉大さよ。
敗戦以来日に夜に、とうとうと自業自得の火の中に、因果を知らざる大転倒、真っ逆さまに落ちて行く、哀れな姿を胸に懐き、いかで救うすべもなく、己の力のか弱さに、ただただ称名念仏して、悩み続けしこの我に、時か恵みか尊さよ。母上逝きて一年の、法要せんがそのために、九州行きの汽車の中、大地にとどろく大音声、名妙法連結経、名妙法連結経。この天音は我が胸の苦悩の闇を打ち破り、光の国はここにあり、救いの道はここにあり、来いよ来いよと響きけり。我はすべてを投げ捨てて、この大御声のままに、ひかれて参る田布施駅。同志の方のお出迎え、勿体なやと合正し、大神様のお膝下、参れば尊し八百万、あまた集える神々の、真心こめてこの我を、喜び迎え給いたる、祈りの会座の尊さよ。昔日向の高千穂の、安の河原に神々が、大神様のみ光を仰ぎて舞える御神楽を、今眼前に拝みさせていただくことのありがたさ。我は我城にとどまりて、このみ光をみ恵みを、心の底に受けもせず、無我の神楽も舞わずして、我慢我慢に足も手も、こわばることの恥ずかしさ。
大神様はあわれみて、我の予定の今一日、のばして神の膝下にとどまるべしと宣えり。仰せのままにお受けして、神教こうむるその一日、大神様の御憐み、万の神の真心は、さすがに曲がりくねりたる、我城をいたく打ち破り、懺悔感謝にとめどなく、流るる涙もろともに、自然に出て来る神の舞、ただ尊さよありがたさ。久遠刧来この世まで、動かぬ手足腰立ちて、御光拝み舞い回る、心の中の嬉しさよ。ああ、この我はこのままに、神の舞をば舞い続け、大神様の仰せつる、蛆の世界をかき回し、蛆の乞食の目をさまし、神のみ国にはせ参じ、神のみ国の建設に、舞うて喜ぶ新神を、一人も多くみ国へ送り込むこそ我がつとめ。日夜妙法唱えつつ、六魂清浄つとめぬき、蛆の世界の乞食らを、神のみ国へ送ります。憐れみ給え大神様、導き給え万神、名妙法連結経、名妙法連結経
大神様は第2回東京巡教の帰り姫路で下車(昭和22年1月24日)、赤松氏の案内で彼の寺、常念寺で4日間ご説法。その後、赤松氏の案内でかれの熱心な信者坂口宅に移動しご説法、神の種を播かれた。4日後(昭和22年1月31日)に田布施に帰られた。その後播州の太子町、斑鳩など聖徳太子ゆかりの地を中心に神の種が育った。昭和39年2月に赤松氏は大神様を訪ね、大神様は彼を手厚くもてなした。
(注)キリスト教の牧師にも同じようなケースがある。有名なのがデンマークの牧師、ハリー・トムセン氏である。彼の伝道によりインドネシアに神教が飛び火したようだ。彼らは大神様を見て、神の降臨・キリストの再来というのが良くわかり感激した。
(注)埼玉地方に神の種をまいたのは白山神社の神主夫妻(馬場)であった。夫人は大神様が紀元元年(昭和21年)3月6日に東京にお見えになる1週間前、「太陽が東から出て、天地がひっくり返る」という夢を見た。若神様も見られた夢である。6日には急に倒れ震いが止まらなくなった。友人がきて「天地の神は殺しゃあせん。この試練を越えたら天命が下り、大業を果たさせる」と言われた。大神様がご説法されていた慈雲堂の看護婦に知り合いがいて、「馬場さんは救われる。28日にくる」と言われ、手紙で知らせてくれた。夫妻は28日に参り大神様が宇宙絶対神の化身と悟り入教した。「お前は神主じゃが、当分は続けてゆけよ。神様がええようにしてやるけい」というご指導であった。神主をしながら近隣の町に神教の伝道を一生懸命していた。神社のお守り札を貰いに来る人にも、今はお札のいらない時代になった、と言い、神教を説いた。当然地元から反発が出て、社務所から追い出されそうになった。夢で大神様に「叩き出されても絶対出てはならぬぞ。出たらお前らに罰を当てるが、出なかったら追い出し運動する者に罰を当てる」言われた。紀元3年5月無我の歌で「8月に入ると伝染病が出て神教にたてつくものはバタバタ倒れる」と歌いだした。8月1日から赤痢が流行りだし6日には一日で15人も死者がでた。皆は恐れて反対者はいなくなった。順調に神の国は開けていったが、紀元7年神のふるいがかかり、中心メンバーだけが残った。紀元12年8月本部に参った馬場さんに大神様が「9月に埼玉に行ってやろう」と言われた。このころ夫妻は大神様の許しを得て社務所を出、川島町の自宅に戻っている。大神様は9月に埼玉にご巡教になり同志も増えて神教の基盤が確立した。