釈迦の行・キリストの行

紀元3年の4月にニュース映画を映した時に、「これがキリストの”山上の垂訓”ちゅう有名な教えが残っちょる、あれいや。キリストは山上の垂訓があって間もなく十字架に上がったが、われは19年に言うたように、今度は死刑にせるどう」ちゅうて(肚の神様は)言う。その時に、わしが初めて東京へ行く時に、それこそ女学校の生徒らが、皆屋根の上まで出てね(昭和23年9月)。あのキリストが(刑場に引かれて行く時)
「屋根の上から木の上まで上がって見た」ちゅうて言おうが。みーんなとぼけて屋根の上まで上がって、不思議なんで。東京に行った時に「おサヨや、これでの、キリストの行は済んだんど。今度は釈迦の教えへ戻して、釈迦の教えを2カ年説かして、釈迦、キリストの上へ連れて行く」ちゅうて。「釈迦の時代でも、キリストの時代でも、まだつまらん。」ちゅう。文明科学が発達して崩れる時じゃから。釈迦は7分8厘まで霊界の掃除した。キリストは悪霊を祓う腕はあるが済度する腕がない。わしは9分9厘9毛まで霊界の掃除をさせる。わし一人じゃつまらんけえ、みなに皆、合正して「名妙法連結経、名妙法連結経」で祈りさえしたら、悪霊を済度する腕がみんなもらえる。みんなせてやるから悪霊の済度ができる。
これは昭和30年10月3日アメリカ巡教中でのサクラメントでのご説法の一節である。
(1)「キリストの行」が始まったのは昭和23年(紀元3年)4月18日のご慰安日で、この時同志2000人を連れて天念の恩額山に登り、それを新世界ニュース社がニュース映像として撮影した。この時の写真(天声425号P51)を見ると、たしかにキリストの山上の垂訓の光景を想像させる雰囲気がある。
(2)大神様の周辺の人々は昭和23年4月24−25日の呉での歯科治療の頃から、異変を感じていた。
「この度はキリストの晩餐の行をさす。そして9月には東京に行ってキリストの行をする。生きて帰っちゃ来んじゃろう。」と言われ持参されたお米で一升炊くように2名のお供に命じられた。これをオムスビにして3個づつ12名の同志宅に、呉の支部長(歯科医)に配らせた。
この中の1名(女性)は「イスカリオテのユダ」役に当ったようで、後日、本部での大神様の説法中に彼女が立ち上がり、両手を大きく開いて「大神様、それは違います。」と言ったそうだ。大神様は、気の毒そうに微笑まれたようだ。彼女はそれを最後に、神教から去った。(天声226号P97、228号P48)
(3)第3回東京巡教の時、生きては帰れないと大神様は告げられていたようだ。お供を希望する同志は多数いたが、12名になるように選ばれ途中乗車での随行も許されなかった。(しかし大阪から1名お供は増え、13名になった。)これらを、「怪しい」と感じて、「キリストの行」、つまり「殺される行」を強引に邪魔して、命がけで大神様の命を救おうとした地元同志・君国陽陰がいた。彼は無断で汽車に乗り、追い返しにもめげず、着いて行った。東京でも度々追い返されたがついていった。
9月24日午前大神様は文部省宗務課で迷信調査会の面々から「審問」された。キリストの処刑前のパリサイ派司祭たちの審問に相当。午後、新宿駅西口での公開説法中に、千人以上の群衆がいきり立ち、何重にも取り巻いた。同志たちも近寄れない状況で集団リンチが起こる寸前までなった。機動隊が駆けつけ、交番に誘導し、そこでの議論になり沈静化した。この夜、大神様は生きて帰れるのがわかったようだ。
翌日、共立講堂での公開説法の途中、大神様の神歌説法に合わせて、同志の無我の舞が舞台で舞われた。舞っている同志は目をつむっており、下の同志は全員目を閉じて合正している。突然40歳ぐらいの男が大神様の首に腕を巻き付け締め出した。君国は大神様を見張っていて直ちに飛び出しその男を捕まえ、人目につかない所へ連れて行きお祈りすると、会場から出て行った。その状況を見ていた行者ふうの50歳ぐらいの男がいて「とっさの時、どうしてあんなに素早くうごけたのか」と聞かれ、「命がけで大神様をお守りしようと着いて来ているから」と答えた。(ひょっとするとこの行者が暴漢を操っていたのかもしれない。)
大神様は度々ご説法中に反対者に襲われそうになったが、神体に手がかかったのは、これが唯一であるようだ。これは肚の神様の承認なしには考えられないことである。
君国は本部に帰ってからも「神肚に合わないことをした」と怒られた。しかし「殴られても蹴飛ばされても、地獄に行けと言われても大神様についていく。」という真情を述べて、優しくゆるされた。
(4)イエス・キリスト旧約聖書の予言通りに行動し、予言された十字架での死に向かった。ロバの背に乗り、ダビデの子、ユダヤの王という群衆の叫びの中をエルサレムに入っていった。死後の着物の分け取りまで予言は実現された。これらはよく知られている。イエス・キリストは宗教の専門教育に触れる経歴でないにもかかわらず、ユダヤ教の神官しか触れなかったであろう旧約聖書を、神官が驚く程に覚え深く理解していた。これは長らく不思議とされてきた。大神様の事績を見るとこれは単純明快。キリストにも肚に神様が降臨し、学ばず・すべてを知っていたためである。キリストは旧約聖書を読んでいない。しかし旧約聖書を人(モーゼ、イザヤ、エゼキエルなどの預言者たち)に書かせたご本尊の神様がキリストに入っていたため、すべてを知っていたと想像される。(ヨハネによる福音書5.46,7.15−16、マタイによる福音書21.33−42など)神様の指示どうりに死が分かっていて進んだ。大神様の「キリストの行」も同じで、次々と予告された事態が実現していき、予言された死に一直線に向かっていかれた。なお大神様も旧約聖書の一節(エデンの園からの追放)にスウェーデンボルグと同じ解釈を言われたことがある。
キリストは自らを「(エホバ)神のひとり子」と言い、大神様は「天照皇大神のひとり娘」と言われた。
(5)キリスト教で長らく意味不明とされてきたことが、天照皇大神宮教を学ぶと氷解する。たとえばマタイによる福音書10:34である。
10:34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。
10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。以下略
天照皇大神宮教では、一人Xが入教して、親や兄弟に伝道しても、頑として反対しつづけ受け付けないケースが時々ある。この時Xは神行を取り、家族の縁を捨てろと大神様は指導されたことがある。神の国と、悪魔の世界は、列車がすれ違うように別れていく。反対が神行の妨害にまでなると、「天罰」が反対するXの家族に下ってしまう。Xが異常に神様に近い所にいるためである。野中に立った一本杉と言われた。
umou.hatenablog.com

(6)釈迦の行が、何であったかは、天声でもあまり伝えられていない。ある地元同志は、「出家の行をした。例えば、買い物を一切自分で出来ない。そこで回りの人に頼んで買ってきてもらうなどの行をこの期間された。」と言われた。「この行」はキリストの行の一年後、紀元4年9月に終わった。この時、紀元元年紀元節から3年半後であり、当初からの神様の依頼「3年半の国救い舞をしてくれいのう」が果たされた時でもあった。
(注)「釈迦、キリストの上」釈迦もキリストも家庭を持って説いていない。大神様は家庭を持ち、現職(農業)を持ったまま神行の実際を実行し、実行の通りを説いた。現職持ちまんま・家庭持ちまんまで天国に行ける道を説き・自ら実行して周囲の人々・後世の人々に示した。
釈迦もキリストも、経文や本を持って説いたのではない。大神様も全く同じで、肚の神様の言うままを説いた。釈迦もキリストも、始めは信者はゼロ、施設もゼロ、組織もゼロから始め、説いて祈って、何もない所から世界的宗教を打ち立てた。大神様も全く同じ。
(注)君国さんは有名な霊能者で、終戦時宇宙の大霊が日本に天下ったという感応を得て、終戦直後、全国の教祖、生き神様、仏様と言われた人を訪ね歩いた。見当たらず、自分で占うと「田ブセ、北ムラ」とでたので訪ねて行き、直ぐに宇宙絶対神の降臨が判った。(天声188号)
終戦前、蒋介石周辺の霊能者が日本につき「4つの島だけ残って、4つの政党となり、4で死んで魂で生まれ変わってまた立ち上がる。落胆せず帰国してみよ。日本には偉大な神様が天降られ実に美しい”すめらぎ”の国ができる。」とある人に予言していたのを聞いていた。
(注)以前から大神様の寿命は肚の神様より47歳と言われておりキリストの行の時47歳であった。大神様がキリストの行で死ななかったのは、「身代わり・人柱」になった人がいたからというご説法もある。紀元3年5月に下関の大野夫人が末期の喉頭結核でお参りしてきた。最初の訪問時深夜に大野夫人はご本部で絶命した。心臓は止まり瞳孔は開いた。大神様のお祈りと看病で明け方「生き返った」。その時子牛が生まれ死んだ。大神様は子牛が夫人の身代わりになったと言われた。夫人はその後もご本部で大神様の看病を受けられ、神教を行じ、十分に神教を悟った。結核は治ったが体はボロボロであり、死亡した。即身成仏であった。死亡届はご本部の住所から若神様が届け出した。肚の神様は「残っていた寿命をもらえ」と言われ、後にキリストの行の「人柱」であったとわかった。