ご慰安日

今日は天照皇大神宮教のご慰安日である。大神様は当初連日ご説法されていたが、ある同志(川村かおる 天声363号 P54)が、「たまには大神様にお休みいただいて、我々同志が大神様をご慰安する日を作らせていただきたい」と申し上げ許可されてできた日であり、記念日のある月以外は毎月第3日曜日である。似ているのは、ユダヤ教安息日キリスト教の日曜日である。

安息日旧約聖書の創世記2章
1 こうして天と地と、その万象とが完成した。2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
出エジプト記第20章
8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

ここからモーゼの十戒の中に「安息日を守る」つまり安息日に仕事してはいけない、が入った。

日曜日:キリストの復活は、処刑3日後の日曜日であった。ここから日曜日が復活の日として、「主の日」「聖日」と呼ばれ、321年ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が日曜休業令を発布して安息日を取消し、日曜日を礼拝日とした。

キリストはユダヤ教安息日ユダヤ教の会堂(教会)で病人を治したことがあり、これがモーゼの戒律に違反したということで問題となった。(マルコによる福音書2章)大神様も他宗の場で説法したことも多くあり、抗議されると「宇宙絶対神は人を救うのに時と場所を選ばない」と答えられた。

ご慰安日に関してもやっていいこと・悪いことというような同種の問題はあるようである。神教とは天照皇大神宮教の教えのことであり、大神様の教えであり、本来は一つである。しかし人間には自我があるから「自分の神教」ができてしまう。同志と話をしている時、各人の信じている「神教」が各人各様に違っているように時々感じる。大神様はご説法で「自分の神教」問題としてハワイの例を挙げられた。要約すると
ハワイのある娘から手紙がきた。その内容は「ご慰安日に初めての人(神教を知らないまだ同志にもなっていない人)が参ってきた。そこである人が、神教(のイントロ)を説明していると、ハワイ州支部長が来てやめさせた。支部長は『ご慰安日に神教話をするな』という若神様のご指導があったことを理由にした。これは正しいのですか」という大神様への質問であった。この種のことを指導するのは大変難しい。わしが、ご慰安日にも神教話をしていい、といえば、みんなは無我の歌・無我の舞をせずに木陰で神教話をするようになるだろう。ご慰安日は神教話をしてはいけない、と言えば、はじめての人に日を改めて参ってこい、というようになってしまう。このような問題で同志同士が喧嘩するようになる。
仏教では、ある段階までは教義に忠実でないといけないが、その段階(魂の段階・悟りの段階)を超えると自由無碍にならないといけない、と教えている。しかし自由無碍を履き違えると邪道に落ちる。難しい問題である。

大神様は自由無碍について、ご自身の体験を話される。終戦直後、初めてきた女に「小遣いを遣れ。食うものをやれ。着物を遣れ」と肚の神様が世話を焼かせた。「その代りに、はあもう来んなよ」と言ったがまた来る。来るたびに旅費も何もないから、こちらで世話して汽車賃も出してやる。これが度重なった。(彼女の一家は戦前の日本領だった海外からの引き揚げで、海外にあった全財産は没収になり、一文無しで日本に帰国)夫は闇商売をしていて愛人を作り、そちらにいりびたって、妻子に生活費を渡していなかった。彼女に「神教」という小冊子を上げたら、それを読みだしたら、ひとりでに「名妙法連結経」が口に出始めた。それまでは、夫と愛人が憎くてたまらなかったが、それが腹が立たなくなった。すると夫が戻って来るようになった。自分がどんな重労働をしても不思議に疲れなくなった。

「うん。お前はのう。来るたんびに神様に迷惑をかけちゃあ。罰が当たるんぞ、本当は。主人は闇商売するんじゃけい金を持っちょる時があろうが。あれ風呂に入った時にのう。そろっと懐中(財布)の大きい金をちいちっと盗うじゃ、のけちょけ」「持っちょる時があろうが」と言うと「あります。自分も取ろうかと思うたことがあるけど、そねんことしちゃいけんと思うて取らだったが、取ってもよろしゅうありますか」

「うん。取れ。神様許す。おらが取らしちゃるけえ、取れ」「働いちゃよその女子へ持って行って、自分の女房と子供が神様のところに来て厄介になる、主人にひどい罰が当たるから、おらが盗ましちゃる」

盗心がある普通の人間には「盗むな」と言う。それだけ困窮していても主人のものを取ることを知らない者には「取れ」という。人のを取るのではない。自分の夫のを取る。自分の子供の生活費もいるのに、それを人の世話になり迷惑をかけておいて、夫は道を外れたことに金を使う。夫はひどく罰の種を撒くことになるから取れという。神様は自由無碍よ。