神に高い高いをされる

赤ん坊をあやす時、高い、高いといって持ち上げると赤子は喜ぶ。神教の初期の同志は、神様から高い高いをされたと良く話されている。
典型例.天声379号大貝真五郎。大貝さんは末次平蔵さんから伝道された。大貝さんは「宗教心に浸っている時は心が落ち着く。しかし欲望や執着心は、自分で制御できないし、煩悩を絶つことは人間には不可能だ。従い、生活と宗教は別々で、いくら欲望や感情を抑えようとしてもできないのではないか」と考えていた。末次さんは「生活と宗教を一体化するのが神教」と説明し、「大神様は見抜き見通しの神眼を持たれ、絶対神のご化身として、神のなされないことは、なされない神そのものに在します」と説いた。神教をいろいろ説明されて、大貝さんも輪廻転生、反省懺悔と祈りで神に行く真人間の道を理解できた。そこでいよいよ、末次さんの案内で大神様に会いに行った。大神様に「何しに来たか」と仰せられて「生まれ変わろうと思ってまいりました」と答えた。大神様は優しく「生まれ変わらんでもよい。足らぬところ足していけばよい。あんたは男としての肚がない。わしの千分の1、万分の1の肚のある男に会たことがない」と言われ朗々と神歌説法をされた。「真人間になって上がってこい」という内容だったが、「どうで、わかるか」と言われて、もっと聞きたくて「わかりません」と答えた。「もう一度歌ちゃろう」と、「裸役者になって、神国のために行じて上がってこい」という趣旨の神歌説法をされた。「わかったか」といわれたので「わかりません」と答えた。「素直じゃからよい。一人前になろうとして来ている」とご説法を続けられた。何とか分かろうと真剣に聞いた。朝・昼・晩と聞き、休憩時間には同志から神教話を聞いた。
2日目、「私にわかりますか」とお尋ねすると「2、3日おったらわかるいや」と仰せられた。食糧は3日分しかもっていなかったが、戦後の混乱期なのに同志の顔が明るく輝いているのを見て、「断食してもわかるまでいよう」と肚決めした。夜の宿泊所に若神様がおいでになり「世界中どこを探しても、因縁を断ち切る祈りはこれ以外にない。世界平和はこの田布施から始まっている」と確信に満ちて話された。それまでAさんはお祈りの時、ただ目をつぶり合正しているだけで、自分からお祈りをしていなかった。
3日目ご説法が分かりかけ、お祈りが始まると、過去の懺悔が出、雑念を打ち消し全身全霊でお祈りしようとし、次々脳裏に浮かぶ雑念を払い、名妙法連結経を唱えていると、躍動がこみ上げ合正した手が動き始め、自然に名妙法連結経の声が出て、何の想念も浮かばない世界に吊り上げられた。無我の心境に入った思いがした。そして思わず「わかった」と言った途端お祈りが止まり「わかった。わかった」の言葉が口をつき大神様のみ前に行き畳に臥してどうにもならない状態になった。大神様の2拍手でお祈りが終わり「わかったらよっしゃ」と背中をポンと叩かれ、口が止まった。体を起して仰ぎ見た瞬間、絶対神大神様を感得した。「どうでわかったか」と仰せられたので、心底から「わかりました」と答えると、「わかったようで、わかるまいが」「あれが無我なんで。あの日蓮でさえ10秒もそこにいたことはないんで。時至り、宇宙絶対神直々天降られたればこそ」と言われた。
何とすばらしいことか。探し求めていた「救い」が稀有な神直々のみ教えで与えられ、人生最大の喜びの日であった。そして自然に合正でき、ご説法の一語一句がありがたく、神言は黄金のごとく光り輝き魂に食い込んだ。お祈りすれば手は高く上がり、悪霊済度の法力が実感された。それは瞑想・黙想で行ける世界でなく、口先で千万言の経文を読んでもだめ、法力のない宗教の時代は終わったことを体験を通してわからせていただいた。
翌日帰宅すべく電車に乗ると、一般の人が暗い顔をしているので、すぐに低い声でお祈りした。すると線路のガタゴトいう音が名妙法連結経と聞こえた。名妙法連結経を口ずさみながら車窓をみると、山・川・樹木・電柱・支柱にいたるまで、どれも合正の姿で送迎しているように見える。良く見ると、松や杉、檜、電柱・支柱なのに本部で合正して挨拶される同志の姿そのものであり、こちらの心が荘厳になれば、天地一切が荘厳な合正の姿になることを教えられた。
(注)見るものすべてが合正の姿をしているという経験をした同志は多数いる。ただそれが何カ月も継続した人は稀なようだ。神様は時期がくれば高い・高いをされ聖人の域を経験させる。しかしそれでその人が「聖人」になれたわけではないようで、その後、様々な試練と経験を経て、半分自力で上がってくるのを望まれ、その過程を大神様がコントロールすらされたようだ。
「獅子は子を生むと3日でその子を千尋の谷に蹴落とし、よじあがってくる子だけを養い育てる。神行、神に行く道は、一人一人の欠点を直さにゃ行かれない。足らない所は足してやり、余る所はぶちもぐだけの腕がなかったら、本当の指導はできない。他の宗教家のように、信者が金や物を持ってくればペコペコ頭を下げて機嫌を取るようなことでは絶対神に行けない。薬売りが、コマを回したり手品をして客を集めておいて、薬を売るように、神様はわしをつこうて病気を治したり八卦見のようなことをし、ちょうど赤ん坊に高い高いをしてやって、うれしゅうてならん天国を見せておくが、時が来ると突き落として、それでもハイハイというて付いて来る者だけを連れて神の国へ行かせてやるのじゃ。」
この試練の過程が必要な理由を説明して、「みんなの魂を引き抜いて、久さ吊り上げちょいたら魂が抜けてしまうからのう。そうしておっても蛆の世界へ戻るのは世話はないよ。蛆の世界で馴れちょるんじゃから無理はないが、油断したら蛆の世界へ戻るのを、また引っかまえて放り投げしておるのよ。先頭に立ってそれがやれるのは神様よ。人間じゃ絶対やれない。」と説かれた。スウェーデンボルグは「人間の改良過程は有機的変化を伴うので、一気に行うことはできない。」と書いていて、魂の向上と身体的変化とは関連しており、天使になるには肉体が作り変えられ、組み換えられねばならないことを示唆している。この目でみると、大神様の修業過程で大量出血をしたりしているのは深い意味があると推定できるし、同志の肉体的試練の過程も興味深いケースが多く見受けられる。ある同志(川村馨)は皮膚病が長く治らなかったが、治った後大神様は「体に毒があっては、神は使えない。毒を取るため皮膚病になった。」と明かされた。「一日で魂を磨く方法は?」と問われて、大神様は「一日では一日だけのものしか磨かれない。行は死ぬまでが行。一生が神行にならねばだめ。」と答えられた。
正しき神は、道を教えるのみ。いくもいかぬも己次第。と人間の自由意思を神様は説かれる。この点も釈迦・キリストと同じである。仏教のお経、例えば維摩経では、心清浄な人には、この世界は完全清浄に功徳荘厳していると映り、心不清浄な衆生には苦悩に満ちた世界と映るという趣旨の部分がある。「死んだ時卒業証書がもらえる。」と説かれるように、ある時期高みにいても、その後の行次第で落ちる人もいるようだ。仏教でもクラマジーワのような例もあり、同じといえよう。「心の行」「心の掃除」ということを、ちゃんと意識して、日々死ぬまで実行、深化させつづけることが必要。仏教の精進と同じである。
(注)霊夢でこれを教えられたのが大峠シマヨさん(天声69号)入教直後夢で大神様が現れ「天国に連れていってやろう。」と言われ数名の方と共にエレベータに乗せられた。初めは本当に気持ちよく上昇していたが、いつの間にかエレベータの底がなくなり、大峠さんは必死で電車の吊革のような物に掴まっていた。他の人も同じく掴まっていたが、谷底に落ちていく人もいた。天国に行くのも命がけだなと思いながら昇っていくと、高い山の中腹に降ろされた。はるか高い頂上で大神様が大手を広げて早く登ってこいと招いていた。山の傾斜が急で小さい草しかないため爪を土に立てて少しづつ汗みどろで登っているところで目覚めた。大神様に申しあげると、「初めは高い高いしてやるが、後は自分の肚で上がって来いということだ」と言われた。
神様が人間を天国に神の慈悲で入れるのは、社長が会社に社員を採用する決定を社長の慈悲でするのとは本質的に異なる。神は人間を天国に住まわせたいと望まれるが、人間が自分に内在する悪を滅ぼしていない限り、彼は天国に住めない。彼は利他の愛が支配する天国が苦痛になり、自ら望んで自らを地獄に投げ落とす。内在する悪・自己愛、人に優越したい欲・支配欲・所有欲・邪淫欲などが、「束縛からの自由」を求めて爆発し、自らを地獄に入らせる。心の掃除なしに天国に入れない所以である。神の慈悲とは人間に自分の悪を気づかせ、それを反省懺悔する機会を与えることである。またより酷い悪に突入しないように守られることでもあり、懺悔を受け入れ赦されることでもあるようだ。