神の御国とは

「神の御国が出来ている」と言われて、どこにあるのですかと大神様に質問した人がいた。神の国とは教団のことではなく、霊界にある天照皇大神宮教の天国のことを指す。ただ大神様在世中は、霊界と現実世界が2重に重なっている実相の世界がむき出しに現れていた。そのため不思議なことが多く起こった。大神様の聖行に協力した人を、大神様が神力で《神の国》に住まわされた。するとその人の商売が異常に儲かりだし、お金が回ってきたり、本人や家族の難病が治ってしまう。ガラス販売店の経営者の例では、作業場にガラスの切屑が散乱しているが、そこを子供が裸足で走り歩いても全く怪我をしない。ルース台風の当日、翌日の大神様別府巡教のお供をするために、本部宿舎にいた300名の同志の各地にある自宅は台風被害が皆無だった、など多数の事例が知られている。
 紀元14年の2月石城山の植林作業に400名の同志が参加。自発的に心の限りを尽くして作業し、無報酬で神様の事業に感謝して働き、雨にずぶ濡れになっても文句を言う人は皆無だった。これが《神の国》と大神様が言われた。この裏では、参加メンバーに奇跡が頻発しており、結核末期患者が治ったり、各種の難病が治ったりしている。これは魂が上がって《神の国》に住めれば、現実世界で幸運・幸福が来るということで《行じていくのも神教》と言われた。大神様ご在世中の天声には、この種の不思議な体験談が溢れかえっている。
 
 また大神様のお供をすることは、《神様のお供》ということで、途中下車が許されなかったりした。例えば大阪在住の人がお供《神の国の一員》になり本部出発、山陰を巡回し岡山に来た時、そこから大阪に帰ることは許されず、田布施の本部にまでお供で戻り、お供を解除されて、初めて世俗の人になり大阪に帰れる。お供の間は、世俗の人の手伝いを親切からでもすることは許されない。老婆の荷物を持ってあげたり、女性に列車の座席を譲ったりすることも許されない。世間常識の通用しない世界である。神様や《神様のお供》が人間に仕えることはできないためである。

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 神行をやめ大神様に背を向けてしまうと、その人は《神の国》から落ちてしまう。すると普通状態に戻ってしまい、治っていた病気が再発したり、商売も失敗したりする。
 これを魂が落ちれば、現実に不運になり不幸な境遇に苦しむということで「落ちていくのも神教よ」と説かれた。
 別のケースでは、神行している家庭に、神行と無縁の親戚の人を引き取ったりすると《神の国》スフィアが壊れて、普通状態に戻ってしまい、治っていた病気が再発、商売も失敗、したりしてしまう。
 本部宿泊の行だと、神行していない家族が訪ねてきても部屋に入れてはいけない。
 親子関係では、神様(大神様)が親、行する同志は子(神の子)という関係を意識するよう指導された。本能である血縁関係にとらわれないように、というご指導「やったらやりきれ。もらったらもらいきれ」とが典型だ。しかし実行は中々困難である。

 また神力だけで《神の国》に住み続けると、その人の心の改良のための行ができないため、一度普通の状態に戻すことが神様により行われた。すると試練が起こり、本人が本物だと、苦労の中で因縁を切り、真人間の道を歩み、自我を克服する心の行をして、自力で6魂清浄になろうとして、次第に無我を実現し《神の国》に登っていく。すると聖者になる。仏教などで大修行を達成して到達できる所に、家庭と職業を持った普通の生活の中で、神教のもと祈りと心行だけで到達できる。これが神教の本質だ。

 《神の国》を創るのは神様であるが、神に使われて《神国建設》や《神の国を守る》のは人間の役割である。霊界の《神の国》の土台は、神教実行をする生きている人間である。人間界で天照皇大神宮教のことを知る人がいなくなり、天照皇大神宮教のお祈りをする人がいなくなれば、人間界と天国にいる神様(大神様)との連結は切れてしまう。ここから教団を拡め、維持し伝道により同志を絶やさないようにすることは人間の重要な使命である。同志は行が進めば神になれる(即身成仏)。人間が神になれる種(神種)とは、天照皇大神宮教のことであり、情報(神教出版物)、実行する同志などのことである。

 スウェーデンボルグによると、天界はグループに分かれており、宗教別になっている。仏教国、キリスト教国、イスラム教国など。法華経でも様々な天界と仏教天界との交流が書かれている。大神様が出現して、新たに《神の国天照皇大神宮教の国が創られた。そこの住人は天照皇大神宮教により天国に行かれた人々の霊(八百万の神)である。大神様に救われた死者の霊が多い。生者では、大神様が因縁のある人、聖行に必要な人を選んで救い、住民にした人が多い。その後も心を磨き続け、徳を積み、真人間になり無我に近づき聖者になった人も多い。しかし油断して後退し欲に溺れて、自己中心、自我で生きるようになると《神の国》から自ら落ちてしまう。こういう人も多数いた。それは生きている最後の瞬間まで重要である。大神様は「肉体持ったそのままで天国住まいができるように、心の掃除をおこたるな」と説法されている。

 生きている時でも、大抵の人は自覚がないだけで、地獄とか天国に自分の霊(魂)が存在し、時々刻々心の状態に応じて場所を変える。天国も地獄も広く様々な場所があり、そこを移動する。天国から地獄に落ちたり、また天国に上がったりもする。生きている時は天国の幸福感、地獄の苦痛を共に弱く感じるだけだが、死後は強烈に感じるらしい。魂が天国にいる時は、現実に物事が万事好都合に運び、幸運なことが多い。地獄にいる時は、現実世界で苦労が絶えないし、その地獄の種別に応じた苦労がある。自分が反省懺悔をし、功徳を積んでいくと天国に霊が住めるようになる。自己心中の《神国》と、霊界にある《神国》とは同じものである。《神国》の一要素が自分の霊。部分構成要素が全体の《神国》と同じ構造になるフラクタル
 
 ただ自己心中の《神国》は、雲がかかっており曖昧模糊としているのが普通である。雲とは自我と間違った知識(神様などいないというような考え方)である。 良心を赤土でまいてコールタールを塗り、外側を鉛で覆ったのが普通の人の心。
 《神国》の住民は鉛の殻が割れて、タールが一部剥がれ、赤土にヒビが入って良心・真心が働き出した状態にある。魂を磨くとは、土やタールを取り払う努力である。良心は《神国》からの啓示である。
 自我と悪癖を取り払う努力を続けることを「神国は己の心で生まれて肚で育つ」。この人を仏教用語では菩薩という。
 こういう水準の高い人々が集まった所が地上天国、地上神の国である。魂が通じ合う社会である。真心を尽くし合う小世界である。地上天国は《神国》を自覚できる個人、家庭、職場、支部・・・など個々にある。この小世界は周りを浄化する力を持つ。お祈りにより悪霊を済度でき、世界平和に貢献できる。

 大神様のご説法に「神の国はよそじゃない。神教実行する人の己の心に生まれて肚で育っていく。自分の心に生まれて肚で育っていくの知らんと、何ぼでも邪神のおもちゃになる。」「やっておくれよ神国のために。神国のために何をやる。教えられた神教が己の個性になるように、心の掃除を怠るな。」「自我じゃ行けない神の国」「神の国いうのは、こう見よったら見える所にできるか、そうじゃない。神教実行する人の心の中で生まれて、肚で育っていきゃいいの。わしの前におっても、一人は天国におる。一人は地獄におるという。やあ神様の前に行っちょりゃ皆同じじゃないか・・・いや魂で行く」「己の心の中に神の国ができて、だれも神の国に行ったとは思わんのじゃが、安心立命の世界におれるちゅうのは神の国ちゅうのがわかりゃせんかね」。
 同志になり、教団に属し、行事に参加しているだけで神の国に住んでいるのではない。神の国に住むには、悪をなさず善をなし、心の行をして自我を克服することが必要。

 神様が地上に出現したのが大神様であるため、その時代(1900~1967)は超常現象が頻発したように見える。眠っていた霊が騒ぎ出したと大神様は言っている。とにかく霊能者が異常に多い。全国各地にくまなくいたようにも見える。また超能力の度合いも甚だしい。ある(悪の)霊能者は、飛んでいるコウモリを呪文で焼き殺して落としたり、銅貨にコヨリで穴を開けたり、人を発狂させたり、物を浮かせ、移動させる、透視する、2箇所に同時に現れるなど、いろいろしたようだ。別の人物で宮様の顧問だった人は、昭和18,9年頃、幹部軍人の集まりで、戦争の行方を聞かれ「西日本に小型の光り爆弾を落とされ、日本は無条件降伏」と答え、後に問題となり軍法会議にかけられたが、宮様が終戦まで匿い通したそうだ。この霊能者がある人に「あなたは救世主に会い救われるとでているが、救世主など何千年に一度だから、自分には信じられない」と言った。この言われた人は、後に大神様に会い救われた。
 他の例は石原慎太郎の『巷の神々』に詳しい。この本は、石原愼太郎の『思想と行為・ 5』 (産経新聞)で再刊された。
 
 スウェーデンボルグによると霊界の天国と地獄は、厳密に区画が分離されている。その境を守るのが、ケルビム(キリスト教)、閻魔(仏教)である。宗教が退行の極に達すると、この区画分離が上手くいかなくなり、霊界が乱れてくる。腐敗した宗教の指導者は地獄に行く。しかし彼らを聖人として崇めていた一般の善良な信者は、低い天界に行く。そのため天界の下部と地獄が連結してしまう。
 霊界が正常な状態では、死者の霊は、生きている人に直接憑依することは許されない。憑依するとその人が霊能者にはなるが、破滅するからである。しかし乱れてくると、直接憑依が起こり始める。これが世の末であり、人が救われなくなってしまう。その時神様が降りて来て救世主が現れ、新しい宗教を開いて、霊界構造を再構築する。
 新約聖書には悪霊に憑かれた人々の奇矯な行動や病気、イエス・キリストによる救済が数多く書かれている。イエス・キリストの十字架の試練(その時ユダヤ教の大神殿の幕屋の幕が裂けた。幕は天界最下層を意味する)により、霊界再構築が完成したそうである(スウェーデンボルグ)。
 大神様は霊界の掃除を99.7%まですると言っている。最近霊能者が少なくなったように感じるが、大神様により霊界の乱れが、正され正常化したためだろう。第2次世界大戦を「最後の審判」ととらえ、新たな救世主が出現するはずと、探しまわっていた人々が世界中に何人もいたようだ。大神様の世界巡教で彼らが大神様に会い、世界救世主と信じて帰依した。日本にも戦争末期から同じことを感じていた人が何人もおり、彼らは初期に大神様に会い教団の熱心な同志になっている。
(注)フラクタルの紹介本:マンデルブロフラクタル幾何学広中平祐訳 日経サイエンス
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