最後の1コドラント:懺悔の重要性

マタイによる福音書
5:21昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:22しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
5:23だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、
5:24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
5:25 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。
5:26 よくあなたに言っておく。最後の1コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。

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天照皇大神宮教では心を非常に重視する。また言葉も重視する。行為として殺人する(5:21)ことは、普通ない。しかし他人に腹を立て、恨み、妬むことは日常的にある。他人に腹を立てることは罪であるという。他人を罵ることは罪であるという。他人を軽蔑することは、更に大きな罪であるという(5:22)。従い、自分の罪に気づいたら、まず最初にすべきことは、懺悔である。懺悔をして祈る(5:23,24)。
相手がたとえ自分を恨んでいても、自分が神様に懺悔することで、その恨みは晴れる。恨みは恨まざることにより晴れる(5:25)。
懺悔して、懺悔して、すべての自分の犯した罪を懺悔して、懺悔し尽くして天国に行ける(5:26)。
天照皇大神宮教の同志の臨終前に、このことが良く起きている。自分の人生が絵巻物のように思い出され、そこに、すべての関係者が現れてくる。そこで、今まで自分では考えても思ってもいなかった事が、神の基準では罪であったことが分かり、懺悔できる。懺悔し懺悔し、すべての関係者(行の相手)に懺悔ができた時、最後の1コドラント(当時の最小通貨単位:25円)までも支払えた時、天での負債を払い終えた時、天国に成仏できるようだ。
天照皇大神宮教の有り難いところは、天に福徳を積む機会が多いことである。そのため、生前でも、臨終前でも、大神様が現れ、懺悔の機会が与えられる。生きている間しか懺悔はできない。この懺悔が完全にできることで、天国に行けるようだ。もう一つの有り難いところは、何が悪いかを教えられ、神教実行の日常生活で、罪を作るのが減ることである。
自分の最後の命取りの病気にさえ、神の慈悲を分かり、感謝できるまでになる人もいる。子孫の悪因縁を手繰り寄せ自分の試練でそれを済ましてしまうことができるという感謝。因縁により、伏さなくなる運命だが、老年で最も打撃の少ない時期に出してもらったという感謝もあるようだ。病気の苦痛を、「これでも直さぬか、これでも直さぬか」という自我の強い罪深い自分への大神様のお叱りととらえ、「大神様ありがとうございます」と感謝しつづけた人もいた。末期の病気さえ真人間へ導くための、神の慈悲と感じたわけだ。
(注)この死んで直ぐに天国に行くというのは、神教以外の一般には極々稀なことで、「即身成仏」と呼ばれる。
大神様は「反省懺悔、反省懺悔で天の写真帳が白地になるまで、みんなが反省懺悔、懺悔するのが一番いい、一番大事なんで」「罪ありゃ行かれぬ天国ならば、誰も行かれはしないけど、反省しては懺悔して、天の写真帳が白地になったらだれでも行かれる天国」と説かれた。
(注)人間が心から懺悔をすると、必ず神様は聞かれ(罪を)許される。これが分かる事例が多数ある。極端な例だと、これ程の破戒僧は珍しいケース。(他人の女房8人を誘惑、妊娠させ堕胎させ、隠し子3人、本人は梅毒にかかり、しかし神通力があった故、大寺の名僧として世間では有名であった)。彼が握手を求めても大神様は知らん振り。しかし彼の誰にも知られていなかった、かくも酷い行状を同志を通じて告げさせた。彼は懺悔に大神様を訪ねると、大神様はそれを受け入れた。彼はまもなく死病にかかり、大神様に会おうとしたが、大神様は他所に巡教中で逢えず死亡した。大神様は「無限地獄に落ちる所が、懺悔があり、10万地獄まで許された。懺悔が更に完全であれば、10万地獄に行かずに済んだ」という趣旨の話をされた。
別の例では、ある同志の父は密かに殺人をしていた。精神が異常になり度々大きな借金を作り、家族は地獄の苦しみに落ちた。彼が本部に連れてこられると、磨きの会を妨害し、大神様は頭が痛くなった。しかし家族が熱心に神行していたので、置いておかれた。しばらくして彼は大泣きを始め、日々深く懺悔を繰り返した。まもなく彼は死病にかかった。大神様は紀元18年3月東京巡教から帰ると、直ぐに彼に会われた。彼はそれを待っていたかのように、直ちに死亡した。懺悔が完全であったため大神様が葬儀され、「即身成仏している」といわれた。
同じ話は仏教でもあり、「指マン」として有名。彼は邪教の教祖により、「7日間で1000人殺し、左指1000個で数珠(マン)を作れば、天国に生まれさせる」と騙され呪いをかけられた。彼は大量殺人を繰り返し、あと一人という時、実母に会った。母までも殺そうとした時、お釈迦様が現れ神通で目を覚まされた。彼を仏教僧侶団に入れた。国王は「これ程の罪人を許して、僧にするのは国法と矛盾している」とクレームをつけた。仏は「徹底して自分の罪を懺悔した者は許される。如何なる罪人でも、徹底して懺悔すれば(霊的には)許される」と言われた。大神様が「だれでも」と言われたのと全く同じ。
神仏が懺悔した罪人を許されたことは、我々への大切な教になっている。昔、自分に損害を与えたり、自分を苦しめた人物を一生恨み続けるのは間違いで、神仏さえ許されたのだから、人間は許し忘れなければならないことが解る。
(注)懺悔により魂の掃除がされた例:
Aさんが初めて大神様を訪ね説法を聞き、宿舎に泊まった夜、猛烈な嘔吐・下痢が起こった。ある婦人が現れ、神教と試練であることを諄々と話してくれ、悪霊の作用であるから、道場でしっかりお祈りするよう教えてくれた。すぐに道場にでて一生懸命お祈りすると、初めて霊動がでて、心からの安らぎ・楽しさを味わった。その深夜何者かに引かれるように、宿舎を抜け出し、小池の前に立つと、急に今までの歩んだ過去の懺悔が突き上げてきた。父を呼び、母を呼び、兄弟を、隣人を呼び、懺悔した。これまで暗い気持ちで歩み続け、多くの人々を苦しめ傷つけてきた罪業を肚の底から懺悔した。いつの間にか、そこには大神様がお立ちになっておられた。「わかったか」と言われ「はい」と答えた。汚れた魂が神の清水で洗い流されるのを感じた。
(注)神教実行が懺悔の一形態であることが判る例
Bさんは道場でのお祈りの後、大神様の前に引き出された。「懺悔せよ」と言われたが、Bさんは訳が分からず唖然としていた。大神様は大声で「神国の役に立つか、立たぬか返事せい」と一喝された。「神国のためにやらせていただきます。」と誓うと「やっておくれよ、神国のために」と、にっこりされた。
身近な例では、妻なり、夫に済まなかった、悪かったという懺悔があれば、今後の接し方・言行を変えて相手の仕事を手伝うなど相手が喜ぶようにすることが懺悔の実行になる。
(注)大神様により自分の罪を思い出される例
これは多数あるが、典型的なのがCさんのケース。Cさんは入教して直ぐに、鮮明な夢を続けて多数見た。その中に、自分が郵便ポストから針金を使い封書を盗み、封書の中には2円80銭入っていた夢があった。翌日考えていて、不意に27年以前公務で出張した際、出張費の精算で2円80銭多く請求していたことを思い出した。これが盗みであることに気付き懺悔することができた。