生きた宗教

行じてさえゆきゃ行かれる。じゃが「生きた宗教」ちゅうのは、ずーと自然に戻って、またトントントントンと文明科学へ向いて行くから、遅れんように皆付いてこんにゃ、「あの時ああ言いやったけえ」「この時こう言いやったけえ」ちゅうんじゃ、つまらんよ。神髄は違やせんよ。神行とは神に行く。合正とは正しく合う。絶対なる神と人との肚が正しゅう合うようになったら、神人にあり。人神にあり。神と人とが共にあい。神人合一の人間になったら、天使ちゅうて神に使われる。神様に使われるの。生きた宗教ちゅうんじゃけえ。死にもの宗教じゃったらバイブルならバイブルに書いたら、はあそれぎりよ。それから一歩もでられない。釈迦が死んで1200年から300年の後に書いた経文も、もう千股に分かれた。分かれた経文も作り替えりゃ人間がやるんじゃけえ、一層わけが解らなくなった。この神教は「あの時ああ言いやったけえ」ちゅうても、もう違うちょるよ。絶対なる神へ、世界平和のために自分の心の掃除せていく、これは間違いないよ。悪霊の世の中になったら、悪霊の後ろ控えで人と人とは喧嘩する。国と国とは戦争する。人に病気の種になる。悩みの種になる。その悪霊の済度ができるような法力を持って祈れ祈れ。それも違やせん。天に恥じない道を踏めちゅうのも違やせん。何が違うかちゅうたら、こないだもここに来ちょる同志の孫が学校に行くのに、予防注射に来いちゅうて言うたのに、ある同志が「予防注射じゃけえ行かあでもええ」ちゅうて言うた。わしの肚、怒ってのう。
神の国へ来て、神の国から学校へ行くのに、門に入りゃ笠を取れちゅうて、学校には学校の規則がある。今度予防注射に来いちゅうたら、行け」ちゅう。いよいよ行かんちゅう肚を作ちょったら、はあ今度はやれちゅうよ。今度は変人の行じゃないよ。
(中略)
「学校へ行くな」ちゅうたら、皆が「勉強せんな」ちゅうんと間違えちょる。人間は常に勉強せだったらつまらんよ。。。。はあ今度は「学校へ行け」ち言やあるよ。
(紀元14年3月21日のご説法の一部分)
予防注射はその種類によっては、自分のためだけでなく、地域・国全体でのその病気に対する戦いという公共的側面も持つ。この公共利益に反逆したということで、神様は怒られたのかもしれない。
この頃の天声65号支部めぐりに神教の変遷に関する興味深い記事がある。
XX支部は、おそらく最も古い支部の1つでありましょう。その発足以来既に12年の歳月が流れておりますが、そのたどった道を、今振り返ってみる時、まことに感慨無量のものがあります。その成長の跡は、あたかも私自身の行の過程でもあり、又古い支部同志の歩んだ道でもありましょう。(中略)伝道に来られ共磨きの会が発足、大神様がお越し下さり、急速に同志が増えていきました。共磨きの夜には道場も一杯になる盛況でありました。その頃は入教当時で、まだ神教も真人間の道の方角もわからぬまま、神様に高い高いされ、嬉しくてたまらない時期であり、叫べ叫べの時代で、急に神の子にならしていただいたぐらいに思い、わからぬままに肚を作らしていただいた時代でありました。街頭伝道は毎週水曜日に行われ、それ以外の日は殆ど毎晩、町内同志の家を順番に回って神教話に夜のふけるのも忘れる状態でありました。又その当時は霊の作用が大変派手な時代で、第一お祈りは今のように落ち着いたものでなく、お祈りしながらピョンピョン飛び歩く者、他の人を叩く者(病気治し)、立って無我の舞をしだす者、お祈りの最中突然倒れる者、何と言ってもにぎやかなお祈りであり、かつ熱の入ったもので、15分も20分も続ける状態でありました。またそのうち、外霊は出ますし、死霊生霊などもよく出てきて、同志の口を使ってしゃべりますし、つい人の欠点や過去の罪などをペラペラしゃべって、それが良く当たるという具合で、霊界の体験を多かれ少なかれ皆が体験させられた状態でした。無我の舞も、始めのうちは電気にかかったように踊らされ、日本舞踊のようなもの、倒れては起きる者、ヒョットコ踊りをする者等、千変万化、実ににぎやかなものでありました。
以上のような時代が2年ぐらいも続いたように覚えております。その頃は若い同志も非常に多く実に愉快な思いでの多い時期で、これが第一期と言えるでしょう。
第2期とも言うべき時代が、「叫べ叫べ」の時代から「実行だ実行だ」に変わって行った頃で、紀元4年から5年にかけてであると思います。一度高い高いをされた同志は、今度は谷底に落とされ、神の篩にかけられた時期であったと思います。この時代に、最初付和雷同的に入教した者は、片っ端から落とされていき、残った者もやっと神教から離れずにいるといった形で、今までの熱狂的な所はどこえやら、次から次に出てくるご試練に青息吐息といった時期でありました。ようやく世評も耳に入りだし、それかと言ってまだまだ「心の行」といったものもチンプンカンプンわからず、磨きの会と言っても、魂の裸になるどころか、かえってよそゆき姿で、おざなりの体験やお陰をいただいた感謝ぐらいに終始した程度の頃でありました。
このような時期にも神のみ慈悲により10数名の同志は落ちてしまうことなく、わからぬながら一生懸命神教にかじりついておったのでした。その間も今から考えると少しでも神教をだんだん身につけさせていただき、神様は私共が行のいかなるものかを知るための時を与えて下さったものと思わせていただきます。
次の第3期とも言うべき時代は紀元5年から8年頃で、やっと腰を持ち上げようと、よちよち歩き始めた時だと思わさしていただきます。ちょうど汽車が動き出した時のように、まだ歩調が合わず、ガチャガチャ音を立て、支部内は波乱万丈といった形でありました。大神様もいよいよ世に出られ、同志も一生懸命やらねばと、個々においては神教に対する熱意が盛り上がって来ておるのでありますが、まだ行も身についていないし、自我は廃らず、自分の欠点より人の欠点の方が良く目につき、気になる時代ですから、家庭の行においても、支部の同志間においても、色々面白くない事が起こり、神教中心に磨き合う代わりに、神教で人を縛ろうとし、人を責め、裁き、挙句の果ては生霊の飛ばし合うといったことが次から次と形を変え、人を変えて表面にまで現れていた時代であります。その半面これではならない、どこか自分達の行の間違いがあるとの反省が芽生え、自らの行に目覚めて行った時期でもあったのであります。お互いが凡夫なるが故に、やはり自分自身が頭をぶっつけなければ気ずかしていただけなかったのでしょう。
丁度その頃生書が出版され、同志がより深く神教を理解し、行のいかなるものかわかるのに大変役にたったのでした。大神様の半年間のハワイご巡教、続いての2年間の米大陸ご巡教が一人歩きの準備期間とでも言えましょう。大神様のご先登切ってのご苦行は留守を守る同志の立ち上がりを促さずにはおきませんでした。
支部としても真剣に行じ、一致団結、実行にとりくむ機運になってきました。自分達も伝道させていただこうとマイクなども購入し、まとまり伝道にはげみ、出来ないながらも、一本立ちをやらしていただかねばと、心を決め、漸く行ということが解りだし、支部も軌道に乗り始める時期が到来したのでした。毎月天声を通じて知らされる大神様の米大陸の御行は私達が腰砕けにならないようにお導きくださるのに十分でした。磨きの会も心の行が話されるようになり、支部もしっくり行くようになってまいりました。
紀元11年大神様がご帰国になり、月月の天声に前進を続けられる全国同志の行が載せられ、行の糧となり、同志の行が進むに正比例して、良い共磨きが出来るようになりました。この頃大神様は一人歩きの行を強調されるようになり、大神様のご肉体のご疲労による同志の自覚はこれに拍車をかけ、石にかじりついても一人歩きの行に徹し、大神様の大聖業ー神の国建設に少しでもお役に立たせていただかねばとの決意を固めさせていただき、それが支部形成、支部活動に結集され、現在に及んできています。
(長文のため抜粋要約しています)