なさるがままの行

「なさるがままの行」という神言が古い天声の同志の記事によく出てくる。なさるがままとは、あらゆる努力を放棄して、なり行き任せに生きる生き方のように思う人もいる。霊界で、手をだらりと下げて立っているだけの人のイメージである。

しかしこの神言は、神を信じ切って生きる、ということを裏に秘めている。すべての出来事と、それの展開は、自分の因縁・運命と、因果と業力、神の法則によって出てきて決まる、こう信じ切って、すべての出来事に、神教に沿って対処することだけに努力する。その途中で出てくる苦難も、行として捉え、神教に沿って対処することだけを考え、結果につき自我で心配して、自我であれこれ悩まない。後は、神様が良いようにしてくれると信じ切って、周りから見れば悲惨な状況であっても、これも与えられた行と感謝し、日々、お祈りと神教実行に生きる。

この生き方が「(神の)なさるがままの行」である。

例で考えると、自分の最愛の妻が死病にかかったとする。彼女を救おうと最善の努力は当然尽くすし、彼女の魂が救われるように最善の行動をする。しかしやがては死んでしまう。「(神の)なさるがままの行」であれば、悔いは残らない。時が経ち、彼に、元の妻より、ずっと素晴らしい女性が現れ、彼は幸福な人生を送り、やがては寿命を迎え妻の看護を受けて昇天する。こんなケースもあるだろう。妻を神が彼から取り上げるのは、因縁因果。新妻を与えられたのは、「なさるがままの行」のご褒美である。

このような人生を生きられた多くの高名な同志がいたことが、天声の記事を読むと解る。