仏教3法印

仏教3法印とは

1.諸行無常
2.諸法無我
3.涅槃寂静

1.諸行無常

諸行とは、世の中のすべての事象を指し、無常とは、それは時の流れに応じて常に変化する。どんなに優れた人でも、神様でも、時の動きに逆らえない。神様でも、時が来れば肉体は死んでしまう。どんなに優れた会社でも教団でも、時に応じて衰退したり、復興したりする。家族でも、どんなに仲良しであっても、時に応じて事件が起これば、心は離れ離れになり離散したり、又仲直りして強い絆で結ばれ直したりする。国でも衰退したり、興隆したり変転する。

これらはアタリマエのことであり、誰でも真理であることは解る。しかし、この当たり前の事実を、自分の心で受け入れるのは難しい。愛児に死なれて、何年経っても諦められず、今生きていれば、こうだっただろうと想像し、悲しみをいつまでも引きずる。

夫に死なれた妻、妻に死なれた夫はその後の人生で、いつまでもこれを引きずる。これは、時の流れでしょうのないことだ、と頭でわかっても心で消化できない。

諸行無常の教えは、せめて頭だけでもわかって、諦めろ、執着を捨てろ、という教えである。

2 諸法無我とは、法無我・人無我とも言われる。

2.1 法無我

法とは自然のことである。自然の中に、自分というものはない。自分が明日は晴れてくれないと困ると、いくら願っても、晴れるか、曇るか、雨が降るかはお天道様がきめてしまう。自然の中に、自分が自我で想像する自分を見出すことはできない。

自分の自我で人生を夢見て設計していても、大地震や台風が来れば台無しにされてしまうこともある。また国にスターリンのような暴虐の政治家が現れ主導権を取れば、強制労働させられたり、家族ばらばらに強制収容所に送られたり、兵士にされて戦死したりしてしまう。なんでこんな理不尽な人生にさせられてしまうか嘆くのみである。自分の自我は全く通らない。

別の例では、Aさんが頑張って大量の紅葉を山に植林して、見事な紅葉山を作ったとする。秋の紅葉シーズンになると、大勢の人が美しい紅葉景色を見に来て賛嘆する。この自然景色のなかに、Aさんの自我を見いだせるだろうか?自我で自然に影響を与えることはできる。モミジの植林である。しかしそれが終わった瞬間、自然は自然の力で変転する。四季を通じて、紅葉は成長する。ここにAの自我は全く無い。

2,2 人無我

人とは、他人と自分を指す。他人Bの中に、自分の自我で想像したり期待したりしているBはいない。例えば、長年一緒に暮らしてきた自分の夫や妻でさえ、自分がこれまで思っていた人間とは全く別の一面を持っていて、それに気づいて驚く、というようなことはよくあるだろう。

自分自身でさえ、自分が思っているような人間でない、ということが他人には分かる。自分のことを自分は案外わからないものだ。目は他人を見るようについていて、自分は見れない。中山公威さんはこう表現した。

つまり自分の自我で作り想像している世界は、架空の世界であり、真実の世界ではない。架空の世界の主人公、自分も架空の像にすぎない。架空の世界にいる夫や妻、子供も架空の像にすぎない。妻に愛されている、夫にずっと愛され続けてきたと自分は信じてきても、あくまで架空の世界に過ぎないことが後日判明したりする。「知らぬが仏」というが知らないから仏でいられたというようなケースもあったりするだろう。自分の自我でこうして欲しい、こう行動してこう生活して欲しい、するのが当然だ、と思っていても、相手は、全く別の価値基準、習慣を持っていたりする。配偶者を大神様は「行の相手」と表現したが、実に意味深である事が分かる。

人は、自分の自我で、喜んだり、がっかりしたり、怒ったりしている。友人や配偶者、子供、両親などが、こんな事をした、と言って、喜んだり、がっかりしたり、怒ったりしている。しかし自我評価の世界は架空の世界である。自分で仮定した出来事に、喜んだり、怒ったりしている。この出来事に溺れずに、これを「行」と捉えることが大切。

この実態に気づきなさいという仏の教えが人無我。

運命・宿命、因縁因果、これらが真実の世界である。

3.涅槃寂静

涅槃とは、神様になった、仏様になったという状態で、生きている人間には到達不能の状態である。例外は釈迦、キリスト、大神様。

ただそれに近いレベルには到達可能である。その「悟った」聖人にも、因縁因果により様々な事が起こってくる。謗られたり侮辱されたり、時には飢えたりもする。しかし、彼らは、その事により心を乱さない。心は寂静である。心の中に神様・仏様がいて、啓示を受けて、この出来事の因縁因果を明瞭に見るためである。

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