神教12講

天照皇大神宮教を略称して神教という。この教義の重要ポイントを解説した小冊子が「神教12講」であり、かっては販売されていたが、今は絶版になったようで入手は不可能である。これは各種修練会で度々研修の一環として話されていた時代があったようだ。天声にも同じ内容が掲載されていて、それをまとめて本にしたという方が正しいのだろう。(「真の宗教と新しい時代」:天声230号−257号に15回に分けて掲載された神教講座をまとめた小冊子で12講の後継版と思われる。)
神教12講の最初の記事がでたのは天声61号から天声78号である。12は1年が12月で回ることから、宗教上「理知(月)の面で総て」を意味するようで12氏族、12使徒、仏の12行相、12因縁などと使われた。干支の十二支(子・丑・寅・卯など)もここからきている。宗教上の愛(太陽)の方面では10がすべてを現わし、十干の甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸がこれに対応する。大神様の肚の2神、皇大神が理知・真理・因縁因果を司る神で、天照大神が愛・慈悲の神で、2神合わせて古代では太陽神と呼ばれていた。皇大神が太陽の光、天照大神が太陽の熱である。12講のつもりで始めたが、結局補講を入れて実質14講になっている。書いたのは中山公威氏である。彼は20歳の時日米友好を図ることを願って、米国で1933年開催された日米学生会議に日本代表として参加し、その席上で次回日米学生会議を日本で開こうと提唱し、日米で運動し1934年に実現させた大人物であることがわかる。(木村勝美「太平洋にかける橋」に詳しく書かれている。中山氏は青年時代から自分が吉田松陰なら、どう行動すべきか、を常に考えて行動した。)
夫人も戦前にトロント大学に留学していて、日米学生会議で知り合ったようである。(生書1,天声559号、352号、265号,229号、218号)参照。白州次郎・正子夫妻とよく似ている。彼は戦前には大臣秘書も経験している。彼は戦争前から日本を救えるのは正しい宗教しかないと確信していて、昭和松蔭塾を作ったり、修験道で修行したりしていた。終戦直前昭和20年7月には感応により、日蓮宗の霊能者である山口日畎が指導していた聖道会に入り、戦後すぐ、政治と宗教を一体化するため、正法確立同志会・新日本政治同盟を立ち上げた。法華経の予言から、敗戦日本に救世主が現れると信じた彼らは救世主を探していた。昭和20年9月下旬、身延山に「正法確立同志会のメンバーは伊勢神宮で21日間禊を取り、法華経を祈れ」という神示が下り、神宮本庁の許可を得て、昭和20年11月9日から山口・中山ら数名が五十鈴川で水行を取り、宮司の特別の計らいで神宮内陣で法華経を祈った。その時膨大な神示が下った。主なものは
1.金色の如意宝珠が天から降りてきたが、自分たちの前を素通りして、どこかに行ってしまった。
2.日蓮作成の本尊曼荼羅は当座のもので、本当の本尊は天照大神で、日蓮はそれを地の中に伏せていた。
3.竜神が降りてきて経や机を全部取り払った。
4.天照皇大神と思われる男神、女神2柱がお揃いで地に立たれ、周りに八百万の神が数知れず控えていた。よく見ると、その中に自分たちも交じっていた。手前に大きな川があり、自分たちも真っ裸になって川を泳いで渡り、神の膝元まで行けと言われた。
また別の神示で如意宝珠はすでに地上に降ろされた。とはっきり伝えられた。
翌年(昭和21年2月2日)山口・中山の2氏は田布施疎開していた中山夫人の病気祈祷のため、田布施に来た。祈祷すると、その地方に神々が充満していて驚き、大神様の噂を知って、翌日訪ねた。地元の正法確立同志会の会員杉谷憲治も同行した。山口は一見して、宇宙絶対神が降臨していて、両脇に日蓮上人・春日大明神がいるのが見えた。彼ら3人は大喜びして直ちに弟子となった。5日(この日までに靖国の英霊の済度を大神様がされた)には、山口氏は10年以上身から離さず、欠かさず祈ってきた法華経典・数珠・護符・御遺文など一切を差し出し、大神様(生きた天照大神)はお祈りしてから、燃やした。また大神様が(北村サヨとして嫁としての人間道を示すためこれまで祀っていた)北村家代々の神棚、仏壇などの中身も燃やされた。天照皇大神宮教の既成宗教からの縁切りの日であった。2月9日には山口・中山は大神様の出現を伝えるため、東京に出発した。この日を肚の神様は天照皇大神宮教紀元節にするよう命じた。10日に大神様の口をとおして、現在のお祈りが神直伝のお祈りとして示された。それまでは天下泰平でなく、国家太平であったり、岸(戦犯として巣鴨にいた)を総理大臣として生かして使えたまえ、天皇を救い給えのようなのも有ったらしい。

中山氏はその後20年にわたり、大神様の近くで教団事務所幹部として直接指導を長く受け、生書編纂、天声編集や伝道、海外との連絡など活躍をされ、その後も若神様の指導のもと、死ぬまで活躍されたらしい。
このようなバックボーンの人物が神教講座として、「神教12講」を書かれ大神様・若神様も眼を通されている。

釈尊は成道1年後(この時67人の弟子がいた)、ネーランジャナ河岸でウルビルワカーシャバ仙人を弟子にした。彼はその時点では釈迦より有名な行者で500人の弟子を持っていたが、彼らも釈迦の弟子になり、それまで祀ってきた法具を総て河に流し、巻髪も切った。ウルビルワカーシャバの2人の弟、ナディカーシャバ、ガヤカーシャバも釈迦の弟子となり、彼らの弟子もまた仏教に変わった。この釈尊の事績と、山口・中山の入教とは似ている事が多い。山口日畎も多数の弟子があり、山口氏について天照皇大神宮教に入教した人も多い。2月9日山口・中山の出京を見送りに同志の初街頭進出が行われたが、人数は数十名で、数人の徳山在住者以外、すべて地元田布施の人だった。
山口・中山が大神様を訪ねた前日、大神様は、明日日本一法力の強いお坊さんが来て、わしと問答をする。負けた方が弟子になる。皆で見に来い。と言われた。当日は近隣同志が多数つめかけた。山口は一見して宇宙絶対神と判ったが、皆にわからしめる為、形だけの問答をさせられた。
前年12月に広島県から大神様の所に来た農家の娘 森多(松田)はま子に「天女の舞」がでた。何の踊りも経験したことがないのに、大神様の歌にあわせ自然にで、当時お参りしてきた人々に天人の舞として披露された。山口も入教後に見た。以前霊の世界で見た天女の舞と同じであった。大神様は前年夏ごろ、「今に他県から舞姫が来るんぞ。」と彼女の出現を予言されており、山口日畎を導くための神の作戦であったと言われた。彼女はこれ以降この舞はでなくなった。つまり山口氏を神様は以前から指導しており時が満ちて引き寄せたことがわかる。

山口日畎:会社員の時妻の病気を法華経の霊能者が治したことで、弟子になり霊が見え出し、先生が倒れた後、跡を引き継いだ。霊能が強く、病気治療などで活躍し、日本一の霊能者を目指し単身全国行脚の修行を始めた。21日間深山で滝に打たれる修行中気を失った時、天人の舞を見、声・文字・姿が現れ指導を受け経学を悟ったりした。法華経を一日中唱えていた。その後昭和12年大日本聖道会の指導者に迎えられた。聖道会の集まりで日比谷公会堂が埋まった程の勢力があったようだ。昭和20年7月末、敗戦と8月中の発表を感応で知り、8月になり12日になると言い、後に15日に延びたと言った。大神様の弟子になった時、これまで霊能・護符・お祈りで人々を救ってきたことは、神仏を下界に引き下ろして使ったという大きな罪が点いている、本人の懺悔だけでは不可能な程大きい、と言われた。大神様は特別の水行を取り、山口を救われた。この後6年間東京で神教を行し初代東京地方支部長として活躍し寿命が尽きて天国住まいを実証して紀元8年1月1日亡くなった。

釈尊も僧が加持祈祷をすることを禁じている。このため河口慧海は大変な神通力を持ちながらも、日本・インドなどで一切加持祈祷を行わなかった。ただ未開地でのチベットでは大規模に病気治しを行い、生きた薬師菩薩と評判になり法王直属の医師に推挙されるまでになった。蜜入国が発覚し大疑獄になりかけたが、政府要人も含め治療してもらった人が多かったため、酷くならずにすんだ。
(注)神社で仏教の祈りを上げるというのは、昔から時々行われてきた。日本では神社に仏教の寺があったり、寺に神社があったり、融合している。春日神社は典型で興福寺と合体して、春日大明神とは日本神話の神であり、仏教の仏でもあるとされている。大神様は宇宙に絶対なる神は唯一つ、神というも仏というも同じ、と言われた。伊勢神宮法華経は不思議な縁があるようだ。日蓮上人は伊勢神宮法華経を祈ったらしい。日蓮の一生を描いた日蓮聖人御伝木版画の神宮奏上の場面では、「帰郷の途中に伊勢神宮へ詣で、『われ日本の柱とならん。われ日本の眼目とならん。われ日本の大船とならん』と立教開宗の三大誓願天照大神に奏上したところが描かれている」
日蓮上人が龍口で斬首される寸前に怪異現象が起こり、奇跡的に助かったのは有名。殆ど同じことが玄奘三蔵にも起きている。インドで海賊団に捕まり斬首される寸前に怪異現象が起こり助かっている(「玄奘三蔵」巻3アヨードヤ国)。伊豆の海中より得られた仏像を終生離さなかったという仏教の聖人・日蓮上人が仏陀に対してでなく天照大神に誓うというのも特異であるが、慈雲尊者にも同様のことが起きていて、雲伝神道を開いた。
慈雲尊者が強調した正法律が誰から伝えられたかの研究では、鑑真が伝え、一度途絶え、実範が春日神社に7日参籠して啓示を受け、遺跡唐招提寺に行き再興。数代後にまた途絶えた。その後高尾山の明忍が平野神社、その後春日神社に50日参籠。神が現れ「戒はこれ10善、神道は是句々の教」と言われた。直後に同じ志で参っていた、修験道の行者・日蓮宗の僧が現れ、3人で唐招提寺に行き、正法律を発見・再興した。これが慈雲尊者に伝わった。(木南卓一編・慈雲尊者の話・長谷寶秀P52)
釈迦に忠実を目指した仏教、神道日蓮宗がここでも融合していた。山口・中山の得た神示の膨大さは異常という他なく、最初私が読んだ時は、にわかには信じられなかった。しかし何人もの証言記録から事実であったようだ。これは天照皇大神が地上に降臨したために起きた現象(奇跡)なのだろう。