生書 増補改定版 その後の御足跡3 シカゴ布教

 このような大神様の重大な御行の陰に人知れぬ御苦労があった。それはボストンの悪霊済度の御行と共に随行の崎山・石原の両人共邪神との戦いの行に入り、3人の身のまわりのこと、内地との連絡等一切お一人でなされたことである。お一人で買い物に出られ、通訳なしで立派にお買い物をされたのも、この当時のエピソードである。当時の大神様は次のようなお手紙(抜粋)を内地の同志に寄せられている。

 時が来て、今は地球の背中合わせのところぐらいにおるよ。裏と表、それなのにいつも同志と共におるよ。別に遠くに来たとも思わない。今悪霊のジャングルの中に入っておる。「祈れ祈れ」と祈りつづけておるのに崎山は手紙も書けない。みなは寝ている。今12時32分、せめて一言でも様子を知らせたいと思うてひとりで書いたのよ。話をしていると思うて読みなさい。

 いつも同志の真心の手紙ありがとう。いちいち名前は書かないが真心の手紙だから、真心でお祈りして読んでおるよ。ここは日本人の少ない所だからなおなつかしいよ。便りは同志に合ったような気で読んでおる。私も先頭で出て来る行を切りぬき切り拓いて行くのだから同志もやってくれよ。言葉がひとつもわからなくても結構困らないで何でもやれるのが面白いよ。やる肚できたらやれる神様つけてやると言うが、うそではないよ。

ではみんな元気でがんばってくれるよう、祈ってペンをおく。もう1時だ。さようなら                                        5月24日          北村サヨ

      同志一同様

以上のような45日間のケンブリッジご滞在を終え、の神の命ぜられるまま、シカゴへ赴かれたのは、紀元9年6月4日のことである。

シカゴは魔の都と呼ばれるだけあって、人々の心は荒め、神の種を蒔いても、焼けたコンクリートの上に蒔いたようなもので、とても芽生えるような所でなかった。シカゴに着かれて、官庁や報道機関に挨拶に行かれた時「シカゴの布教は無理です。今まで成功した宗教家は一人もいない」というのであった。

果たせるかな大神様のご行は並大抵のものではなかった。個別訪問までされてのご説法も、あわただしい生活に追い回されている人々の心にはなかなか響かなかった。それにもめげず、大神様の不退転の超人的ご努力は続けられ、たった一人に対しても、百人千人に説かれるのと同じ熱意をもって説かれた。

しかし一か月間のこのご苦労も遂に報いられる時が来た。5月27日のシカゴ定住者会館での公開説法を契機に、つぎつぎに真心持ちが救われていった。7月22日のご説法開始記念日には湖畔のレーク・パークで多くの同志が無我の舞をしてお祝いし、さしもの焼けたコンクリートのようなシカゴにも立派な神の種は根を下ろし、米国中西部地方支部が結成されるに至った。

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