高橋是清随想録 「心」をとり逃がすな

妄念の雲に支配される

最近の世相を、いろいろの方面から見て、いろいろのことが云える。しかし、私は、どの方面に対しても、一口で云えば、まことに気の毒でもあり、また情けなくもある状態だと思っている。

何が情けなくもあり、また気の毒でもあるかと云えば、人間には、通常「心」とも云い、或は「真」とも云うが__名は何と呼ぼうとも、とにかく自然に備わっているものがある__それを現今の世の人々が、取り逃がしているからである。

昔から、よく恒心ということをいうが、この人間に自然に備わっいる「心」或は「真」なるものは、少しも増減することのない、また変化することのないものである。

人は、歳を取るに従い、またその環境によって、いろいろと智慧がついて来る。これは、目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、口で味わい、体で触れて、即ち五官によって認識するのであるが、その認識したものを支配する「心」或は「真」が、天から授けられているのである。

この「心」を、現今の人々が取り逃がしているために、五官の認識が、めいめいの体や意識を支配するようになっている。そして五官を通じての認識のみがはたらくのは、妄念であって、信念ではないのである。

私はよく、都会の塵をのがれて、葉山の別荘へゆくが、そこでは、真正面に、富士の山を望むことが出来る。しかし、富士は、何時までも同じということがない。

雲が一面に垂れ込めたり、或は雨が降ったり雪が降ったりする時には、富士は見えない。また見えている時でも、雲の動きによって、その姿は、始終かわって見える。

併し乍ら、一旦雲がすっかり晴れわたり、空が澄み渡ってみると、それまで雲の変化によって、いろいろの形をしていたものは、すべてなくなり、本来の富士の八面れいりょうたる姿が、現れて来る。

人間の「心」とも云い、或は「真」とも云うも、つまりは、この富士のようなものである。それを取り逃がし、五官の働きのみによって意識するのは、恰も富士と自分との間を遮る雲によって、富士の真の姿を、見逃しているのと同じである。

私は世の人々が、この妄念の雲によって支配されていると考えるので、気の毒にも感じ、情けなくも思うのである。人は「心」を取り逃がしてはならない。

(注)神教では、同じ趣旨の話がよく出てくる。

人間の肉体を維持するために感覚器官があり、その五官ベースの欲望を人間は自分の心と思ってしまう。これは眠ると停止する意識であり、自我であり、神様を忘れての盲目的な家族愛も自我の一種である。人間が作った思想・理論も、それを絶対視すると自我になる。般若心経も言う。「受想行識、自然的な心」これらはすべて実体のない物、つまり自我であり、それを野放しにすると「真の人生」を見誤る。

人間にはもっと本質の魂がある。魂には目も耳もある。神を見れる心の目、神の声を聴ける良心である。死後も不死で輪廻する。神言を実行し、良心が育ち、正しいお祈りをし、反省懺悔で自分を直し、人間道に立ち返れば、心の掃除をすると、神様が内なる魂を磨いてくれる。逆に良心を麻痺させて悪事に溺れると悪霊のおもちゃになって魂が腐る。

自分の周囲の人に真心で尽くせるようになれば、相手も自分に親切になる。周りの人が自分に和気あいあいで接してくれる。これを地上天国という。

自分の過去世を含めた今までの因縁(この一部が潜在意識)に由来する、善霊は助けるが、悪霊は邪魔をして、人間道に立ち返るのを妨害する。名妙法連結経お祈りだけが、この因縁を切る力がある。云々、云々、云々、、、