高橋是清随想録 昭和2年の金融恐慌を懐う(1)

あの時のことを思い出すとき、実に感慨無量だ。昭和2年3月15日に「あかじ銀行」が休業し、その波動が八方に拡がって、毎日各地に銀行の休業、破綻が続出し、財界の不安は日増しに加わって行ったが、4月に入るとその第一日から鈴木商店(大手商社)の整理が傳えられ、株式市場株が一斉に崩落した。

(海外も不穏、中国・ロシアで重大事件が起こり)諸株はいよいよ低落する一方であった。

かくて4月8日に至り神戸の「65銀行」が休業し、鈴木商店の業態が危険を報じられ、神戸を中心として関西金融界の不安が著しく拡大し、コール市場は事実上閉鎖されるに至ったのである。鈴木商店の危険が傳えられ、「65銀行」が休業したということは、これと最も関係の深い「台湾銀行」に対する危惧の念を一層強からしめ、当時すでに緩慢なる取り付けを受けつつあったものが、ここに至っていよいよ急激なる取り付けを受けた。殊に同行に対して巨額のコールを貸し付けている銀行は、相前後して回収を始めたので「台湾銀行」は非常の窮地に陥り最早支払停止をなす外に方法がなくなって了った。

そこで時の若槻内閣は、日本銀行にして「台湾銀行」に対し、2億円の金を貸出させ、それがためにもし、日本銀行に欠損を生じた場合は、政府がそれを補償しようという案を立て緊急勅令をもってこれを発布しようと企て、4月14日議案を枢密院審査委員会に付議したが、同会は全員一致をもってこれを否決した。それでも政府は本会議においてあくまで本案の通過を図ったけれども、その努力は遂に水疱に帰し、内閣は責を負うて辞職した次第である。

そして「台湾銀行」救済の緊急勅令が不成立に終わると同時に、同銀行の内地及び海外支店は一斉に閉鎖のやむなきに至り、これが財界に非常のショックを與えて、18日に至ると日本銀行の貸出は空前の激増を示して8億8千万円に達し、それが前日の5億8千万円に比し、僅か一日にして2億9千万円を増加したのである。19日に至ると全国金融界の動揺は更に甚だしく、各地の銀行が相次いで休業するもの多く、対米為替も48ドル8分の3に低落し、財界の不安はいやが上にも加わり行くばかりであった。

この混乱の最中、4月19日午前11時に組閣の大命が田中男(田中義一男爵)に降下した次第である。田中男は大命を拝して宮中から退出するその足で直ぐに私を訪ね大蔵大臣として入閣してくれといった。

私は当時すでに74歳で、大正14年以来政界を引退し、閑雲野鶴の身であったけれども、当時の財界は非常なる危険に直面していたのみならず、同時に我国の海外における、財界信用も殆ど全く失墜し、外国の諸銀行が日本の銀行との取引を拒絶して来るような状態にあったので、私は遂に老齢でもあり、また当時は病後の衰弱がまだ回復していなかったけれども、この国家の不幸を座視するに忍びないという気になり3,40日という約束で就任を許諾した次第である。私の見込みでは3,40日で一通り財界の安定策を立つることが出来ると考えたからだ。

就任式の行われた4月20日の午後6時半は、式後直ちに総理大臣官邸で最初の閣議が開かれ、私が自宅に帰ったのは夜の9時頃であったが、私は自宅に帰ると直ぐに日本銀行総裁、同副総裁及び大蔵次官を招致し、既に数日前から緩慢なる取り付けを受けていた「15銀行」の救済問題について意見を徴した。それから日本銀行をして21日の午前3時まで非常貸し出しを敢行するよう交渉し、かくて各銀行の手元準備の充実に努めた。

ところが21日午前2時半、「15銀行」休業の報が一度伝わると、不安に怯えた預金者たちは21日の明けるのを待って怒涛のごとく各銀行に押し寄せ、東京、大阪、名古屋、京都、神戸等の大都市に於いては勿論、地方の各市町に至るまで、300人、500人、千人という多数の預金者が銀行の窓口に殺到して取付けを始め、ここに全国的の大恐慌を現出するに至ったのである。

(注)コール 銀行間の短期貸し借り

(注)詳しくは髙橋義夫「金融恐慌 蔵相 高橋是清の44日」