魂を磨く 

魂磨くちゅうのは罪をつくらんようになるのが魂磨くのよ。(天声419号)
この罪を夢で見せられた人がいた。「朝の3時頃、夢で私の天の写真帳を見せていただきました。広い会場の周囲に、私が今まで歩んできた道、言ったこと、したこと、思ったことまで全部貼りだされいるのです。急いで取り外すと、その紙の厚さが2,3センチもあるのにびっくりしました。」
「口と心と行いが一致してかつがつ人間の型にはまる。それを毎日わが良心で磨け」と言われたが、罪の分野にも、口(発言、言葉、文章)、心(思ったこと)、行為(したこと)があることがわかる。
心で、欲しいと思うと盗みと同じ、憎み死ねばいいと思うと殺人と同じ、などのご指導もある。口と心で罪を作らなくなるのは、高い高い高い、、ハードルに見える。
これらには時間という要素が内在している。例えば、ある時心に「Aさんに自分のすべてを捧げよう」と思い、口でAに「愛している」と言ったとする。その時点では口と心と行いは一致している。その後状況が変わり、もっと魅力的なBが現れ、Aの嫌な所ばかりが目立ち、愛想がつきたとする。心は相手に対する不満で一杯になり、Aに「嫌いだ」という。口と心と行いは一致している。しかしAは鈍感な人だとすると、「前に愛している、と言われたのに、今度は嫌いだという。前に言ったことは嘘だった。自分は愚かにも騙されてしまった」と憎むかもしれない。つまりAに嘘を言ったことになる。ここから心がコロコロ変わっていく時、心のままに口で言ったり、行為を行うのは、「口と心と行い」を一致させたことにならないことが分かる。
心を正すことは難しいが、神教にそった口、行いをすることは、人間には可能である。つまり良心に沿った、人間道にのっとった発言と行為は理性のコントロールがきく限り可能である。これが最初のステップであろう。これを繰り返すうちに、悪い心は次第に矯正されてくることが期待される。これが第2ステップであろう。この心の掃除ができた時、初めて、口と心と行いを一致させて、人に罪を作らず、神様の意にかなうようになると期待できる。「我が良心で磨け」とはこのことだろう。
昔、本部の食堂で働いていた同志が「心の掃除は難しいから、私はせめて仕事だけは一生懸命やっている」と話したのが大神様に伝わった。「そのような者はここを出て、外で働け」と厳しく注意された。日々反省懺悔して心を磨くことが最も大切で、本部では仕事を完璧にこなすだけではいけないことを注意された。
「3生因果を背負って立たにゃならぬ行の道」という神言もある。心の掃除、反省懺悔とお祈りを日々繰り返しても、因縁により、心に罪深い思いは湧いてくる。本性ともいえる根深い業である。「出てくる邪念を打ち払い打ち払い、死ぬまでかかろうとかまやせぬ。」と言われるように、死ぬまで続く行の道である。
スウェーデンボルグによると人間には内なる心と外なる心があり、内なる心の愛が善である人Pと悪である人Qがいる。Pは神を愛する人で、天的天使である。現代ではこの種の人は極々稀である。
Qの人がほとんど全部である。このQの外なる人の中に、良い種がないと、彼は悪人になるしかない。しかし良い種があると、彼は改良されるチャンスがある。良い種とは、人間にたいする善意・親切を持っていたり、正しい宗教を知っていることである。神様は彼を救おうと常に手を伸ばされ、段階がくれば霊的試練を与え、彼がこれに敗れず乗り越えると霊的天使への道が開ける。彼は内なる心の中で理性・智慧を正し、神教・神言を良心とするよう努力を続ける。悪い本来の愛はなくなりはしないが、仮設の新しい愛(善)を作り、この愛を智慧(真理)に結び付ける。約言すれば、神の教え(真理)を理解して肚(意志)をつくって実行する。これにより新しい心、良心が育つ。
実行して初めて、善と真理の結合が生れる。実行だ、実行だ、と大神様は強調された。これが死ぬまで続く行の道ということかもしれない。天国は心で生まれて肚で育つ。真理は心で理解し、善は心で感動して根付く。心に善と真理が生まれ、意思(肚)で実行・実践してだんだん強固になる。
霊的試練の段階に至らない人には、経済的試練、対人試練、病気などにより世の悲哀を味わわせ、自己愛の歓喜から遠ざける。これがパンの発酵に例えられた改良の道であり自然的天使への道である。他人の悪は彼を改良するための手段になっている。悪の存在意義があり、人の改良と、悪の世界での秩序を持たせる意義がある。地獄も最終的には神が支配されるという所以である。
Qの外なる人の中に良い種がないと、神様は罰の恐怖により治められ、より酷い悪に突入しないように守られる。彼は神教を受けることはできない。
また人には「装う」「ふりをする」能力がある。心に憎しみを持ちつつ、相手に愛らしく振る舞ったり、神様を信じてもいないのに社会的な通リのために、敬虔な信者を装ったりする人がいる。偽善者と言われ、霊界では詐欺師と言われ、地獄に堕ちる人である。自分の名声のために慈善をする人間もこの一種。「人間の面をかずいた蛆・乞食」「人面獣心」と言われる人である。口と心と行いを一致させることを常に反省していると、偽善者になる危険が減るだろう。
神教には足し算と引き算がある。引き算とは「心の掃除」「心の行」である。「自分の自我」を反省懺悔とお祈りをして削り取っていく道である。真人間の道を踏むことで、罪を作らないように気をつけるのも含まれる。これが「神教の本道」である。足し算とは、伝道・奉仕・醵金・教団活動に参加協力することなどである。徳を積む行であり、「神教の助道」である。足し算が得意な人で、よくやっていたという有名な同志が、家庭の行につまずいた実例は多くある。足し算は自分の自己愛の発露であったというケースで、猛烈社員が家庭を顧みず仕事をするのと、心の面では変わらない。ただ徳が積まれる利点は大きい。
「魂を磨く」とはお祈りをして、悪癖を直し、自分を直し、何事にも感謝し、謙虚な気持ちで心の平和を作り、嬉しくて楽しい境地で日々を過ごせるようにすることである。すると運命がどんどん好転していく。このように話す同志もいる。
参照 2013-08-14 心の掃除 http://d.hatena.ne.jp/Newshirogarasu/20130814/