第3回海外ご巡教ご帰国後のご説法(前半)

6魂清浄とは、惜しい、欲しい、憎い、かわいい、好いた、好かれた、この六つの魂が大体の根本となって人間はできておる。それを捨て切れとは言わんが、それを清浄にして、今迄来た道を反省しては懺悔なし、神国のためなら裸一貫何にもいらない、いつなんどき命捨てても惜しくない裸役者になって、肚と祈りと真心と三つ揃えて無我で来い。自分の我を捨ててこい。自我じゃ行かれぬ神の国。これをみんな覚えちょろう。じゃが行きよったら自分が知らずに自分の本性を皆出してくる。それで、もう神様が教える通りをみんなが実行して行かにゃ行かれない。「国民の揃うて天地のお気に召します上は必ず住みよき神国を与え給え」わしが教えたことをみんなが実行するところに必ず住みよき神国を与えられるのよ。

みんなが誰もが巣抜けをして神の子になろうとして行をしているのよ。油断したらその上がろうとするのをみんなが落としよる。それでみんな神中心で行かにゃ行かれんよ。

わしが戻ったらね、もう菓子の一つにしても、遅うまで奉仕する者がおりゃ、それに何か買い添えて持っていっちゃれと肚がいうが、それが本当の親心よ。少ないのは少ないように、今日はジュースを出しちゃれと言う。昨日もコーヒーを出しちゃれと言うたが、えっと来るんじゃけえ一遍じゃすまん。まあみんな真心でしてくれるんじゃから、少しでもあっちの物の味をきかしてやろうと思うて、神様は親心でしているのよ。これが人間のエコヒイキで、あれの機嫌をとってようしたら、機嫌ようしてくれるちゅうような蛆頭を出し始めたら、もう神の国はできるんじゃない。今まではそうしてみんな世の中を崩してきたのよ。みんなわかるか。だから同志同志がやり取りするなよ。

わしがハワイでもやかましく言いよったが、もう蛆の世界の世の末を流れ渡った本性を捨てて、本当の神の子になるんじゃけえ、神の肚に合うように魂磨いて上がって、最も上品な、神の国を本当に守る人になって行かんにゃいけん。それで、この位と思うてやったら、それがつい直ぐ癖になっちょる。エコヒイキやり出すよ。

わしがおらんにゃ同志のネジが緩んじょるのを、わしの胆は「誰と誰と、誰とがこうなっちょる」と言いよる。明日まで休みをもろうちょるが、神様が休ましちょいたらまた言わしやるよ。それでなかったら神行、神には行かれんよ。まだだめ、まだだめ、まだだめで、神行、神に行く、合正、正しく合う、絶対なる神と人との胆が正しゅうに合うようになったら、神人合一、天使、神に使われる人になる。絶対なる神の大聖業が始まった。

人間の思うちょることまでわかるんじゃけえ、人間のしたことが分からんような馬鹿な神様はおらん。放っときゃそれが知らず識らずに、どこの支部に行ってもみな本性出しちょる。それをガンコラ、ガンコラ言う。こんなやかましい宗教が天下にあったら出せ。それじゃが、やかましゅうても、叩かれても蹴りとばされても、殴りとばされても、ハイハイでついてくる人のみを連れて役座は別国作るのよ。

ええようにしちょろうが、わしが一人前になる程うじの世界がはしから危険危険、不安不安になってくる。助かりたかったら上がってこい。神行、神に行くには、山あり川あり坂あり、嵐も吹けば雨も降る。その時その都度、ハイハイハイで、恨みが感謝に変わった時、初めて神行の道に入っちょる。あらゆる試練が感謝で受けて笑顔で送れるようになったら初めて神行の道に入っちょる。

それが「でんでん虫虫、つの出せ、やり出せ頭出せ」で、さすっちょたら出さんよ。ちょっと離しちょったら、知らずに、ある角(つの)を皆こうしてヒューと探り探り出す。みんな出さしちょいて根からスッポリもいで行かんにゃいけん。根からもいだちゅうても又知らずに根本から生えてくる。それを叩きもぎ、叩きもぎ、わしが生きちょる間はそれを胆の神がやらしらるよ。それでなかったら本当の真髄は説けないよ。あれはようやってくれるというて遠慮して気兼ねしちょるようなことじゃたら絶対にやりゃせんよ。本当の神の国が恋しかったら、叩かれても、蹴りとばされても、殴りとばされても、ハイハイでついてくる人のみを連れて役座は別国作るのよ。

わしが昔から世の自然について流れよったのがわかるよ。畑の中に住んでおって、茄子一つも、キュウリ一つも植えんと、みな市場で野菜買うて食うて人の世話ばかりしちょったことがある。市場で大口をとるから、ようけある。それを「わしゃこんなにはいらんから、あんたにあげよう」と言うてはみんなにやって、うちに戻った頃にはないようになっておった。いつもかも、レンコンが一貫目(4KG)18銭(1800円程度)の時に、1円20銭程買うたところが、レンコンはばばろしゅうて(かさばって)自転車につけられん程ある。立つちょってみんなにやりよったら、とうとう戻った時には2本しか残っておらなかったことがある。あれも行じゃつたんじゃね。ある時にわしが焦って(多く)作っちょたらひどう安うなる。その時にゃ人の用ばっかししてね(ただであげた)。それで時に応じてある時にはあるように、ない時にはないように、いよいよ倹約してきたよ。ここに来だちには、婆さんが食わしやらんからのう。ミカンの皮まで食うた。そんならないのかとというと、物置には米の50俵(3トン)、60俵積んであるのよ。明くる年の稲の色がついて、今年は取れるなあちゅうのが見えんにゃ、売らしやらんで置いちょいた。それもみんな行じゃったんよ。あんたら手にもっちょってからひもじいのを堪えちょってみなさい、えらいで。ないのなら諦めるけど、物置に積み上げちゃるのを食わしやらん。それでも、あれもこれもみな神行、神に行く行じゃった。恨みが感謝に変わった時に初めて神行の道に入っちょる。あらゆる試練が感謝で受けて笑顔で送れるようになった時、初めて神行の道に入っちょる。米一粒捨たちょっても、婆さんがやかましいから、こぼれたのを皆拾いろった。結局それが神教なのよ。神様が婆さんを使って、わしに知らずに行をさした。

秋の夜が長うても3時間程しか寝せんと、起こしちゃ使いよった。婆さんを使いやる使いやると思う間はせんなかったよ。今思うてみたら、わしが行をし始めて、たった一時間しか寝せんと、48日間説いて歩いたことがある。「おサヨ起きんか」「くそ、眠たい、もっと寝しやがれ」「ようぬかしやがる、おどれ、物を食らいやがるけえ、1時間寝せるのは、1000日待つ気がするぞ。天の神は居眠りするような神はおらん。1発の弾でも、1発の爆弾でも、間違いがあっちゃならんから、天の神は居眠りしちょる神はおらんぞ。」と胆が言いよったよ。わしが寝ちょると神様は使われんから、じっと待っちょるのが待ち遠しかったんじゃろう。

それで胆の命ずるままやってきた。行せにゃ生きる世界がなくなった時、知らずに婆さんを使い行をさせられ、その次は社会の用ばかりをタンタンタンタンやっちょった。またある時には、食べもしたよ。店の者がよう算用を間違えて買うんかと思う程買いよった。贅沢もしたが、それから今度はキュッとしまって、胆の命ずるまんまに、朝飯を1膳食うてから水か茶をコップ1杯飲んで、1日食べんとしゃべり歩かしやる頃、行って戻って、朝食うたおかゆを見たら欲しゅうなって、貞子に1膳ついで貰うて冷ましちょって藤井中将方へ胆が行けちゅう。晩にのう、風呂から出て直ぐに庭に立っちょってササーと1膳程食べたところが、「このいやしんぼう、誰の許しを受けて食いやがったか」と胆が言うと、吐き気がきて、下の田圃へ走って行って吐いた。食いしまうとそう言うて吐かせるんよ。あんたらにはそんな行をせえとは言いやらん。わしは先頭きって行くためにこうして神様が命ずるままにせんときかんから、やって出て来てみたら、知らずに着いた所が天国よ。

行、行、何が行か知らだったろう。行いうのは、心の掃除と正しい祈りがなかったらだめ。名妙法連結経で何でも解決つくという不思議な神の国。祈れ、祈れ、お陰頂きの祈りじゃない。世界平和のために悪霊済度の祈りを祈れ。祈れ、祈れ、祈れ言うても自分が病気になったら祈るか、そうじゃない。

救われんからというて、日蓮宗から分かれた聖道会を作った山口日献が、「朝4時間と夕方4時間、1日8時間題目をあげちょりゃ、もう後1時間すりゃ、チーンと鐘がなるのに、足が痛いんと眠たいのに体の置き場がないようになる」と言いよったが、側についちょる者も、眠とうなるだけ、そうすりゃ無我どころじゃない。自我の塊になるんよ。それがここへ来始めて、線香もいらん、花もいらん、何にも要らん。1人がこう無我の境地になって、名妙法連結経、名妙法連結経と祈るもんじゃけ、あっちの藁葺の宿舎ができたちの頃、来てからもう休みの日に朝から晩まで祈っちょる。とにかくまあ祈りばっかししよった。

行じたいと思うても何が行やらわからない。行ずる道を教えてくれるお方がないがため、迷いに迷う迷い子に、今こそ3000年に1度咲く優曇華の花とは、宇宙絶対なる神が天下り、そちらに行けば生き地獄、こちらに来れば天国と、正しき道を教え給うその時に、生まれ合わして膝つき合わして聞くことできた上からにゃ、教えられた神教を日常生活そのものに織り込み、実行実行で行じてさえ行きゃ、誰でも行ける天国行きの近道を、忘れちゃやれない国救い、忘れちゃ行かれぬ天国よ。

100万日説いても同じことを説く。それじゃが、魂の段階によって聞く響きが違う。須田のおやじはああして人のあら探しばっかしやっておったんじゃが、本を読んでもええところは皆抜け書きするし、説法でもチョコチョコ書き取っておる。そして大神様は「100万日説いても同じことを説く。」と言われるが、そりゃ嘘。皆違うことを説いておられる、と言いよる。自分の魂の段階によって違うのよ。今度はそれを実行に移しゃええのよ。日常の生活に織り込んじゃ、織り込んじゃ、行きさえしたらええのよ。それがこれぐらいは良かろうと思うても、天国行きはちょっと違うても、こうこうこう(手で示されて)曲りくねって曲りくねって落ちていく。真っ直ぐ行きよると思うのが、つい曲がりくねって曲がりくねって自分が落ちていく。そんなら神行、神に行くというても、途中まで来て死んでいくのがいっぱいおるよ。そんなら損じゃないか、嘘よ。神行がなかったら、まだまだどこまで落るか分からんのを、人間の本分を教えられて、人間あらゆる生物1周して、人間界は魂磨きに来た。その人間界で、地位とか名誉とか、金とか財産とか、見栄とか体裁に魂奪われて、己の我を通して人に恨まれて、恨まれるのはええが、今度はその恨みをまた子孫に残しておる。人はええのじゃが、運が悪い人があろうが。みんな親の因果が子にかかっておる。それで自分がお陰を頂かんでも、子孫に因果の種を残さんまで刈り取っても幸せよ。そのための行よ。行したその徳を残すより他に、あんた子孫のためになるものがあるかね。何もありゃせんよ。

人間の乞食の持ち物をそのまま持たしちょいて、真人間になれなれと言うたとてなりゃせん。それで今度は衣食住を魂で決める国を作るんじゃけえ。大きな店をしておっても、いつ潰れるかわからんよ。どこで算用が違うかわからんようになってきた。それでね、倒れそうになったらひどう商売人ちゅうのは意地を張ってね、いかにも転げんように見栄とか体裁を作らんにゃお客が来んし、卸屋が貸してくれんから、それでシイラ気張りに気張っちょるのがいっぱいどこにもおるよ。そんなのが、今度倒れる時には、バサーッと一遍にいってしまう。

昔には1万円あったら3万円とか5万円とかの仕事をしよった。今度は5万円あったら1万とか2万の仕事しちょったらええ、とわしの胆は言う。それでどこが倒れるか、銀行が転げるか卸屋を転がすか、しまいには転げてしまう。あれもこれも、何にも当てにならん世の中よ。それが本当の神の胆に合うように行してゆきさえしたら、神の清水は神の子のみにまわす。人生行路が天国行きの行の道中を忘れなよ。

偉いお方になるじゃない。まだだめ、まだだめで心の掃除をしていけば、肉体持ったそのままで、天国住まいが誰でもできる、不思議な不思議な神の国が開けいきゃ、いやでも消えゆく悪魔の世界、世の自然に目を覚まし、行じておいでよ天国に。