野狐禅
宗教で常に問題とされてきたテーマがある。
「よく修業して悟った人には災難や不幸は起きないのかどうか。また何をしても良いのかどうか?」という疑問である。答は、「因縁因果により災難は起きるが、悟った人はその災難が因縁因果の結果であると知っているので心を乱されることはない。また自分の口と心と行ないが未来の因果の因になるため、人間道を外れないように常に注意する。」
1.仏教の禅宗では「野狐禅」が典型である。
百丈懐海禅師が作話した。自分が説法していたとき、一人の老人が説法を聞いていた。 ある日老人は一人残った。百丈は不思議に思い、「一体、お前は誰か」と声をかけた。老人は「私は人間ではない。大昔カーシャバ仏の頃、この山に住んでいた。ある時、一人の修行者が私に質問をした。〈大修行底の人は還えって因果に落つるや否や?〉。私は、即座に、〈因果に落ちず(不落因果)――因果の制約を受けない〉と答えた。その答えの故にその途端、わたしは野狐の身に堕とされ五百生(五百回の生まれ変わり)して今日に至った。正しい見解を示し助けて下さい」と懇願した。
そこで、この老人が百丈に同じ質問を問う。「禅の修行が良くできた人でも、因果の法則を免れることはできないのか?」。
百丈は即座に「不眛因果」(因果の法則を知り、心をくらますことない)と答えた。
老人は百丈の言葉によって大悟し、礼拝して去った。その大悟にて野狐の身を脱することができたという。これを聞いた黄檗が問うた。「もし彼がこれでも悟らなかったなら、彼はどうなったでしょうか」
百丈は「ちょっと前に来い」と言い軽く黄檗の頭を叩き「胡人の髭が赤いとは聞いているが、更に赤い髭の胡人がいようとは」
2.孔子の「君子固窮」
陳という国で食糧がなくなってしまった。弟子はみな病気のようになり、立ち上がることもできない。子路が怒って、先生に面と向かってこう言った。「君子でも食に窮するなんてことがあるんでしょうか」。先生はおっしゃった。「君子だってもちろん窮することはある。小人は窮すると混乱してしまうものだ」。
3.天照皇大神宮教 大神様ご説法
因果の道理は逃れらませぬ。因果の道理を逃れるために行の道に入ってはだめよ。過去現在未来3生因果が出てきても、恨みが感謝に肚から変わるようになったなら、あらゆる試練を感謝で受けて、肚から笑顔で送れるようになれるよな、肚ができたなら、山より太いししは出ん だれでもやれる行の道
行というても人間道を離れた行はない。
大神様は常に人間は死ぬまでが《行》で、それまで完成することはない、自分が悟ったと思ったら落ちている、まだだめ・まだだめで行じよと注意されつづけた。野狐禅の《自分は悟った》と思う増上慢こそ最大の誤りであるというご指摘である。『みおしえかるた』にも気を引き締めよという項目もある。
そ:卒業証書は死んだ時
ら:落第多い神の国
『みおしえかるた』を作ったのは子供時代の川村(木戸)泰子さん、山口(藤井)久子さんである。全文は天声121号参照
(注1)野狐禅とは1.の如く百丈禅師が「聖人も凡人も因果は逃れられない。聖人は事に当って因果の理法、神の摂理を見る。自分は修業し悟ったから因果を超えたと自認するものは狐(悪の霊能者)である。」と教えたことにすぎない。
しかし最後の黄檗との行為が後世誤解を生んだ。野狐禅の真意を解することのできない未熟者が勝手な解釈を弟子に教え、それが流派として禅の公案となっている。河口慧海は如来禅の重要性と公案禅の弊害を説き、『正真仏教』P181-P193に公案禅の実情を書いた。
一例は
問:如何なるか不落因果、不昧因果
答:不落因果コンコン 不昧因果ワンワン (不落も不昧も大して変わらないの義)
別の流派では
前に2,3歩出てコンコンと言ったり、後ろに退きワイワイというのが「正解」云々
現今の禅の室内の公案通過とはかくもくだらないものもあるようだ。現今、仏教では救われない。天照皇大神宮教でだけ救われる。と大神様が大宣言をされたが、仏教を学ぼうとしても、釈尊の教えが変質して伝わり、随所に落とし穴があり、とうてい仏にまで到達できない。これが良く分かる。神教の下で、現代の実生活において、職業・家庭など日常接する人と、日々の出来事を修業の場、糧として、自己の悪癖を自覚して直す、正しい名妙法連結経のお祈りをして、神に行く道を歩む。この教えのすばらしさがここでもわかる。