内なる人、外なる人

スウェーデンボルグの教説で、内なる人、外なる人というのが良く出てくる。人間の精神構造の解説で、「人間には内なる人(部分)と、外なる人(部分)があり、現実世界での経験や知識の記憶は外なる人に蓄えられる。内なる人は神に通じている。死後は外なる人は停止(凍結)される。内なる人にも呼吸がある。云々。」スウェーデンボルグ教説理解に欠かせない根本概念であるが、私は長年、スウェーデンボルグの著作に親しんだが、ぼんやりとはわかるが、いまいちクリアーな理解がえられなかった。
天声の神教講座に、反省について解説された物があり、そこに反省を行おうとする自分と、反省対象となっている自分の2つがあると解説されていた。この「反省を行おうとする自分」が内なる人であり、「反省対象となっている自分」を外なる人であると考えると、スウェーデンボルグで学習したことと、この神教講座の記事がそっくり同じに思えてきた。
反省対象である自分は現実世界で生きている自分で、欲まみれ、間違った価値基準(地位・名誉・財産・楽な暮らしなどに憧れる)で生きており、自己中心、利己利己の自分であり、今世で行ったすべての行為・思い・学習などの記憶をたっぷり持っている。
反省を行おうとする自分は神様の声が届いている自分である。この中心は”魂”と呼ばれる。自分と先祖のやって来た善行、幼児以来の学んで吸収してきた神教などの良い知識がベースになり、そこに声と啓示が届き、良心になった部分がそれを取り巻く。天の写真帳がこれに付いていて、3生因果が記録され、過去世ー>今世ー>來世とこの自分(魂)は輪廻転生をしていく。魂の”汚れ”として業の種、悪い因果・因縁(遺伝悪)がべっとり着いている。
魂(内なる人)の周りを「外なる人」が取り巻く。これを「魂を赤土でくるみ、コールタールを塗り、鉛で巻いた」と表現される。善行を重ね、徳を積み、悪をなさないように心がけて生活していくうちに、外なる人に良い心の部分ができ、それにより、「魂」に届く神の声を消さないようになると、「魂」が外なる人を客観視できるようになる。これが反省懺悔ができるという状態である。
法力のある名妙法連結経のお祈りをすることで、魂の汚れを落とすことができる。正しいお祈りをし、魂を磨く。「人に迷惑をかけない」ように生活することで、悪の種を積まずにすむ。前世の借金払いとして、出てくる試練を感謝で乗り越える。これで魂の前世での汚れを落とせる。悪癖を直し続けることで、魂についた汚れを落とせる。神の国建設の手伝いをすることで、天に徳を積む。これら(神教)を実行するには覚悟が必要で、肚がいる。
結局のところ、人生の意義は、自分の「魂」をどれだけ救えるかということである。魂を救うとは、絶対なる神と八百万の神々にどれだけ近づけるか、ということである。
ゲーテファウストは死ぬ時、悪魔と神が、魂を取り合う話であったように記憶している。
人生とは、自分の魂を悪魔(邪神)と神が取り合う物語とも考えられる。生まれて以来、何も意識することもなく、因果帳に記された初期値により、両親などの生まれた環境、身体的特徴、性格をもち、それの自然的な発展として青年期を過ごし、初期値が悪い方向なら、それが増幅され、種々の悪を喜びの内に行い続ける。内なる魂は、外なる人に深く深く埋没し、腐りかけ苦しむ。人生の苦悩とは、己の「魂」の苦悩である。
そのまま進めば、無意味な人生となり、悪の種を増していくだけで、死に臨んでは苦しみ、死後は悪魔に魂を取られて、地獄で苦しむだけに終わる。
この苦悩を活かせる人もいる。苦悩が大きいと一時的に外なる人が凍結する。すると神の電波(声)が己の魂に届き、良心が目覚める。これを試練は神への導きという。神教にたどりつけると、魂は喜び、一時的に嬉しくて楽しい状態になる。神様に高い高いをされたという。しかし外なる人は凍結されているだけで、何も改良されたわけではない。これが戻ると、浦島太郎は玉手箱という業の種を開いたという状態になり、苦悩が始まる。「落ちた」といわれる。
神教と、名妙法連結経のお祈りの有り難いところは、因果を70%がた、神様が気前よく、まけてくれることにあるようだ。そうでなければ、我々は救われない。昔の修業者が一生かけて努力に努力を重ねても到達できなかった所に、「易易」と天照皇大神宮教では到達できそうに見える。それは、この神様のおおまけ特典があるためであるようだ。
心の掃除をして、肚と祈りと真心で、3つ揃えて無我で(天国に)来い。
魂が生き、外なる人を支配できるようになると、しめたもの。無我に近い。悪癖を自覚し、それを直そうと努力し続けるのが、魂が外なる人を支配しようとしている第一歩。この自分の努力を肚という。祈りにより神と繋がると神様が自分の内なる人を清めてくれる。自己意識が薄くなると、他人を尊重して感謝で尽くす真心が出やすくなる。自分と物欲への執着が薄くなり神様を拝めるようになると無我に近い。自分の考えの我をはらず素直に神の教えに生きようとできる。これで天国に行ける。これが天照皇大神宮教の教えである。
(注)昔の断食修行や、滝に打たれる荒行などは、魂が外なる人を支配する力を強化する訓練であったと思われる。この時、同時に自分の悪(自我と悪癖)を見つめて、それを取る努力をしないと、却って悪い修行をしていることになってしまう。悪の霊能者になりかねない。
(注)戦前の霊能者加藤泰山は「人間の心=輪廻する自分の魂 + 生まれた両親、先祖の遺伝・因縁 + 神の心」と説明している。大神様は「まず先祖の霊を救え、その後自分が救われ、そして人を救える」と説いた。
(注)社会道徳を守り、家族に尽くし、人に尽くす、親切にする、社会・国家のために尽くす。これらは「人の道」であり、人間としての基本である。これが真心。神様はその真心の人を守ってくれる。大神様は良く、人間の道を離れての行はない、人間の道を歩め。と強調された。また、大神様になる前の昭和17年までの「北村サヨ」さんの時代と、大神様になった後でも、行うこと、言うことは、ほとんど同じであると説法でいわれた。(異なるのは、説法する、お祈りをする、因縁を切る。)お釈迦さまでも、仏になる以前のシャーキャ族の王子時代の行動は、在家仏教の手本とされ、菩薩道を示された時代とされている。
ヨハネによる福音書13.2-11、マタイによる福音書5.20にも同じ内容の教えがある。
この人の道にはずれたことをしていて、ひたすら神秘を求めると、オーム真理教に入った岡崎死刑囚のようになってしまう。正しい人の道を、部分的にもせよ踏んでいないと、決して天照皇大神宮教にたどり着くことはできないだろう。外なる人の言行も大事ということ。
(注)口と心と行い、この3つを一致させよ。と大神様は言われた。これが食い違う人間を、偽善者という。仏教でも身語意の一致と、同じ事を言う。キリスト教でも、バッハはミサ曲で「心と口と行いと生き方で、イエス・キリストを証ししなさい。」で歌っている。
魂が支配して、外なる人を魂と一体化させるまで行くのが理想。成仏と言われる。
(注)スウェーデンボルグ教説での、内なる人、外なる人の理解が難しいのは、自然的な人、霊的な人、天的な人という3段階の神に近づく精神的成長の段階があり、各段階での、内なる人、外なる人の(愛での状態・真理での状態)が詳述されているためである。旧約聖書に書かれている物語の各節・各表現にこれらが(霊的には、実相的には)書かれている部分があるというのがスウェーデンボルグの解説である。3x2x2=12の部分がイスラエルの12氏族に写像されているのかもしれない。天的な人の内なる人の愛がユダ、天的な人の内なる人の真理がベニヤミンとか。。仏教の曼荼羅の図もこれかもしれない。霊界での人間が魂で、現象界での人間が肉体であり、五感であり、脳神経系である。心は霊界と現象界にまたがって存在し、中核に魂があり、記憶・感情、意思、因果を反映する潜在意識が含まれる。言葉は心から出て現象界、霊界にまたがって広がり、記録される。
(注)天照皇大神宮教では、日常生活で出てくる様々な出来事を材料に自分の我を反省懺悔して心の掃除をする。すると肚に神様(神言)が入り、その指導(良心)に人間が素直に従い生きる。自分が改良されると人間道を歩めるようになる。人間が霊的に再生する。大神様により初めて開かれた天国への道である。同志の中には、晩年になって、内なる自分(神教を行じようとする自分:魂)と外なる自分(現実世界で苦悩する自分)の2つを鮮明に見せられた人もいる。