名前はいらない

天声164号の巻頭言である。現代の病相をえぐり、その解決が神教であることを、ズバリと書きだされている。
人間の尊厳。かって大神様が、「今度できる神の国には、八百万の神の名前はいらない。第何番目の神と番号があれば良いのだ。」とお説きになった神言の意義を、つくずく悟らされていただく昨今であります。
現在の世界は自己意識過剰の時代で、他人を粗末にして自分を大切にする。他人の自由と権利は顧みないで自分のそれに固守する、そんな似非民主主義、個人主義がはびこっています。
自我の目覚め、個性の尊重が近代思想の特色ですが、いわゆる自我や個性がそんなに尊重されるべきものでしょうか?
すべての人の心の奥深くいただいている神性、自分のことより他人のことを先に考える美しい真心、自他の区別のないーおのれを空しゅうした大きな愛情、是非善悪をわきまえて善の実行をせまる良心、これこそ人間を尊厳な存在たらしめる普遍的な真理でありましょう。そしてその真理に生きる者こそ真人間であり、神の子でありましょう。
真理に無知なる自我、誤った教育によって罪汚れにまみれた個性を拭い去り、神教一色になり、名による自他の差別などいらない世界こそ、今度できる神の国であります。「八百万の神とは人間なのよ。」とみ教えくださいますが、自我を捨て去り、神教が個性となり、新国神の国建設のお役にたつ神の子となるよう、神行させていただきましょう。
(注)自己意識は自己愛であり、悪魔、邪神である。自分の好きなように振る舞うように、教えるのが悪魔の教義である。日本の教育界・社会にまん延している、個性の尊重はその流れ上にある。未熟で無知な小学生に子供委員会を創らせ、政治家など、大人に苦言や提言をさせるなど、いかに狂っていることか。(毛沢東が政治闘争手段として編み出した手法を、無意識に彼らは使っている)。教師も親も子供におもねり、それが子供の個性と自由の尊重と勘違いしている。子供はダメになる。大人をなめ、社会をなめた忍耐力のない子供にしてしまう。社会に出れば、当然我儘だけでは通用せず、自信をなくし、ひきこもりになる。子供には子供としてやることがある。親の手伝いをし、自分のことは自分でする。勤勉さを学び、他人への思いやりを実行する。神様の存在を信じお祈りする習慣を持つ。いじわるやイジメをしない。他人の尊重、地域の尊重、国の尊重、自分の反省をする。この人間の芯を造るのを教えてもらえるのが神教の有り難い点である。人間の考えなど、所詮は浅薄であり、自分の事すら本当はわかっていない。自分は何故こういうふうに考えるのか、感じるのか、理性が抵抗できない情念が何に根ざしているのか。分かっているのにやめられない人間の現実。(因縁が切れないため)。この反省ができると、神の言葉によらない限り、人間に再生はないことがわかる。自我で考える様々なことが、虚構だったことに気づく。
これが又、天声165号巻頭言に要約されている。含蓄に富んだ素晴らしい一文である。
無我のばか。「自分は無一物のばかだ。」と悟った時、神行の門に入れるとみ教えくださっています。反抗期の子供が、知っている、わかった、と言って、人の言うことに耳をかさないように、ちっぽけな知識におごる、その小さい器では、とても広大な神の教えを知ることはできません。
子供の礼を尽くして師に従った昔と違い、小さい時から自己主張をし、唯我独尊的に育った現代人でありますから、よほど謙虚に自己反省のできる人でないと、天なる声ー大いなる真理に目覚めることは出来ますまい。
相対的な知識をいっぱい詰め込んだ「学者」に対し、「無我のばかになれ」とお説きになる神姿に接するにつけ、つくづく感じさせていただくことは、学ばずして悟る真の知恵の尊さであります。
(注)神の言葉は絶対の価値基準。正しい。人間の自我(理屈・論理)で考えだした理論・知識は相対の価値基準。一面で正しいが反面で誤りがあり、それで社会を創ると、結局は弱肉強食になり、核戦争にまでなる。学ばず悟る真の智慧とは神直々の教え、つまり大神様の教え。良心を磨いていくと現れる啓示も含む。必要な時は自然に神言が浮かぶまでに良心と神言が一体化するまで行くのが理想。(神は神言、神言は神。を実感できる)
(注)例:子供修練会で忘れ物(水着)をした子供が、友達から借りようとして、洗濯してしまったからと断られた。断った子供に親切心(真心)が足りないという反省が必要なのか、借りようとした子供が間違っているのか。その両方なのか。
こんな簡単なことでも、人間の理屈では分からない。どちらにも相当した理屈は付けられる。神様の言葉は明快で、借りようとした子供がいけない。準備を忘れて人に迷惑をかけている。人のものを借りる癖がつくと、借りるのを何とも思わない図々しい人間に育ってしまう。
するのが親切なのか、しないのが親切なのか、奥は深い。