室積の謎

山口県光市の隣に室積があり、大神様が大奇跡を現された地の一つでもある。室積に象鼻ヶ岬があり、その先端に大師堂がある。これは空海が唐から帰国する途中、この地で7日7晩籠ってお祈りしたという言い伝えから作られたようだ。象鼻ヶ岬の海岸にゴロゴロしている石を持ち帰ると腹痛するという伝承があり、地元の人は守っている。象鼻ヶ岬の山は峨嵋山という名がつけられているが、峨眉山は中国の3大仏教聖地の一つで普賢菩薩の地であるとされている。室積の祭りは普賢祭である。普賢菩薩は象に乗る。象鼻ヶ岬という地形と地名が象徴的である。
室積普賢寺成立の伝承では法華経の行者・性空上人が夢の啓示に導かれ、生きた普賢を見るために室積の地にきて、女性を見たとされている。普賢とは勝鬘夫人であり、インドの王族であるため象に乗っている。
参照 2014-12-05 勝鬘経(しょうまんきょう)
https://umou.hatenablog.com/entries/2014/12/05

この仏の数字は200万 つまり 2 である。
法華経を読むとわかるが、この仏は法華経の守護神である。
私は大神様と普賢の関係に強く惹かれる。奇跡の例はこれまでにも一部紹介してきた。:
2012-06-07 正しい宗教の基準(曽野綾子)
https://umou.hatenablog.com/entries/2012/06/07

2012-11-04 牛も聞く
https://umou.hatenablog.com/entries/2012/11/04

2014-11-17 奇跡の一端
https://umou.hatenablog.com/entries/2014/11/17

室積での奇跡は室積支部史に詳細に記録されている。
①紀元3年6月6日室積支部道場で午後1時半から夕方5時まで大神様は説法された。この時支部道場の家人(前田覚治)が庭にあった古い梅の木を指し「これは石梅でございます」と申し上げると「うん。そうか」と一言大神は仰せられただけであった。ところが翌年からこの梅の木に見事な餅梅がなるようになった。
②紀元4年6月18日夕、同志24名をお供に大神様は室積公民館主催の宗教立会講演会にお見えになった。当日室積小学校講堂の会場に行かれる途中、ある同志宅(大西清子)にお立ち寄られ「水を一杯くれ」と仰せられ洗面器で使われた後「もう一杯くれ」と言われ「少し塩がさしておりますが」と申しながらコップでさし上げると「何が塩がさしちょるか」とおおせられて、お飲みになられた。それ以来その井戸の水は全く塩分がささなくなった。
③講演会が始まり大神様の神歌説法が響き渡り唱和する名妙法連結経の声が会場にあふれた。その時無知な若者がやじった。「出て行け」と大神様が一喝され、おとなしく出ればよかったのに、「出るいや」と大声を出し、わざと下駄で床を蹴りつつ出て行く4人の若い男に「一週間以内につち殺してやるから覚えておけ」とお怒りになった。それ以後2000人の聴衆は真剣にご説法を聞き入った。
この2日後デラ台風http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1949/19490618/19490618.html がきた。「夜中に肚が祈れちゅうから、縁に立って祈っていたが、1時間半ぐらいして、`よし風が変わったからこれでよい`と肚が言うた」と仰せられた。その翌日室積で船が沈み漁師が死に、同志も海に出ていたとお聞きになられた大神様は「同志は絶対殺しゃせん」と仰せられた。その夜漁をしていた1隻の船に先日の小学校でご説法の妨害をした数名の若者が乗っており風が出たので急いで港に引き返す途中転覆、全員死亡した。その日1人の同志の乗った船も沖に出ていて港に引き返したが波が高くて上陸できず、荒れ狂う海上で過ごしたが不思議に不安を感じなかった。翌朝無事帰宅。これより前この同志は「たとい船がひっくり返っても、す板1枚あったら絶対に死なしゃせんからのう」と神言いただいていた。
④紀元13年7月26日第1回若人修練会に参加した若人を労らわれるため象鼻ヶ岬に海遊びに連れてみえることになった。前日地元の同志がお参りし「明日は雨が降ってもおいでいただきますように」と申し上げると大神様はお喜びになり「明日は天気にしてやる」と仰せられた。天気予報は台風接近(1958年台風13号)で26日は雨。しかし地元同志は大神様を信じて受け入れ準備を行った。その作業終了が夕方6時頃であったが、その頃から風が強まり雨も降りだした。夜番の同志は徹夜で松の幹に身を寄せ番をしたが不思議に寒くなく眠くもならず疲労もしなかった。大神様が夜中にも何回となくお祈りくださったおかげであろう。
翌朝7時頃風雨はひどく土砂降りであった。予約していた漁船を借りに行くと「これだけの雨が振るのに、今日はだめ」「大神様は天気にしてやると仰せになったから絶対天気になる」「わしは何十年も漁師をしてきて戸仲の測候所と言われ天気が当たらんじゃったことはない。いくら神様というても今日はだめ」と断るのを無理に漁船を借りた。
大神様は8時半ご本部を車で出発された。その頃から室積の風雨も見る間に上がった。9時に大神様が到着。青空で風はないでいた。真夏なのに前夜の大雨で涼しくなり埃も立たない未舗装の道路を走られてこられた。午前中は同志一同海水浴で大神様、ご家族様も漁船に乗られた。大神様、ご家族様の乗られた船は漁師が漕いでも進まなかった。「神の船は重たかろう。手を貸してやろうと」若神様が笑われ、手を貸されると、それ以後、船は軽く進みだした。
午後は西の浜で地引き網の予定であった。大神様は午後1時漁船に乗られ鼓ヶ浦を回って網引の場に来られ、2時半から網を揚げられる予定であった。漁師はこの時間に合わせて網を海にいっぱい張って待っていた。大神様の出発直前数名の新聞記者が来てインタビューが行われた。インタビューは1時間続いた。このため網上げが1時間遅れた。西の浜では満潮で北に向かい潮が流れ、網は流されてしまう筈が流れなかった。6合目まで満ちていた潮が、大神様ご到着まで1時間完全に潮の流れが止まった。漁師たちは大いに驚き怪しんだ。大神様に申し上げると笑われ「宇宙絶対神じゃから、それくらいのことはあるいや」とこともなげに言われた。(当日の干潮11:22 満潮 18:15 月齢9.4 下関測候所)
⑤大神様とご家族様の船、お供の同志の船は午後3時半に到着。その時船から浜に大神様はフワーと鳥のように飛んで降り立たれた。漁師たちは畏れた。(神足という神通力を現された。)大神様はしばし浜でお祈りをされ、その後同志と漁師が地引き網を揚げた。アイバチ(アイゴ:鰭の棘に毒をもち刺されるとひどく痛むが、美味、高級魚)や昼間はかからない大きいチヌ(クロダイ)が入り大漁。アイバチは刺すので手を出さぬように漁師は注意したが、大神様はアイバチの網に手を入れ大きなチヌをつかまれ高々と挙げられ記念写真を取られた。
貨物自動車に乗られお戻りになる途中、「室積の漁師におれが魚をいっぱい取ったが、それ以上の魚を室積の海に入れちょいちゃるけえ心配するな言うちょけや」と仰せられた。同乗の同志が「大神様今日の網は2網で網代3000円のところ神様じゃから1000円にまけちゃげますと漁師が言いましたそうです」と申し上げると、すぐに「そうか、今頃2000円くらいの金は何ちゅうことはないが、その真心だけは、わしがとっちゃろう。漁師に言うちょけ。「1週間が間に大漁を2回させちゃる」ちゅうて」と仰せられた。
するとその漁師はその晩から7日間毎夜大漁が続いた。27日夜はアイバチが30箱(390KG)約10万円、2日後にワカナ(ブリの若魚)が約10万円。7日目にはコノシロが1100KG以上取れ数十枚のムシロに山盛り。2,3人がかりで3km離れた魚問屋に4つの大かごに入れて大八車で運ぶのに夜明けまでかかった。10数万円の水揚げ。(当時アイバチは一晩に普通10匹、多くて20匹くらいしかかからず、3000−4000円ぐらいの水揚げであった)この漁師は当時借金苦で困っていたが、大神様のお陰で救っていただいたと、長年大神様のお写真を祀っていた。
(注)紀元6年10月20日頃大神様御一行は光税務署を訪問、その後虹ヶ浜で昼食をされた。その時イワシ漁をしていた漁師からイワシを買われようとしたが、漁師はお金を取らず、昼食時にはお茶を差し上げた。大神様は「お礼に一週間以内に大漁にしてやる」と言われ一週間後、驚く程の大漁になった。(天声115号P57、光支部史P33:お供三吉郁江)
(注)大神様の最後の室積ご訪問は紀元22年8月26日の海遊びである。この時にも奇跡は起こった。(天声165号P38.)そして「こうしちゃ神様であることを(皆に)知らせるのよ。」と言われた。
(注)第1回若人修練会(紀元13年7月23日−26日)天声57号、537号などに記録がある。各種修練会の最初の修練会であった。参加人数約200名。熱意が高まり第2回若人修練会が紀元13年8月22−26日に約250名の参加で行われた。
(注)在家仏教に関係する日本の聖人(聖徳太子日蓮、慈雲、河口慧海)いずれも普賢に関係する経典(法華経勝鬘経、普賢行願経)に特に縁があった。神教は在家仏教の究極の完成した姿という面も持っている。聖徳太子「命日2月22日)以外はすべて出家であって、家庭と職業を持たずに自身は出家僧として、在家信者に人間道のみを在家仏教として説いた。子育てをどうする、夫にどう仕える、姑との関係をどうする、など微にいり、細にいり具体的に説けた人は皆無であった。神様(大神様)が現れ、百姓の女房として、姑、子供・孫を含めた家庭を持ち、完全な人間道と神に行く神行を実践、これを模範として道標として、跡を人間がついて神になれる道を作られた。参照2012-05-27: 在家仏教の難点
https://umou.hatenablog.com/entries/2012/05/27