生書 増補改定版 その後の御足跡5

長いお留守の間、アメリカの大神様の上に思いを馳せ、、出来ないながらも必死にお留守を守り、一本立ちの行に励んできた同志は、貸し切り列車で大挙横浜に赴き、大神様を埠頭にお迎えし、また他の者は田布施駅頭をうずめつくしてお迎え申し上げたのであった。

思えば2ヵ年間の長期に渡るご巡教の旅であった。その間、大神様には一日の休日もなく、しかも旅から旅の空で、荒れ果てた人の心の開墾をされ、立派に芽が出て育つのを見届けられ、かって史上にもない大成果を挙げられ、神教が世界の宗教として、神の国建設が大神様ご在世中より世界的規模においてなされることを実証されたのである。

大神様は「わしはこの度の行で思い残すことは一つもない。こうすればよかった。ああすればよかった。もっとやっとけばよかったというようなことは一つもない。その日その日を全力を上げて悔いない行をしてきた」とご帰場後にもらされたように、心身を打ち込んでの御行であったことをよくわからしていただける。

お帰りの翌日より、連日本部道場はお土産話をお聞きしようとする同志で、超満員の盛況で、そしてその状態は一月、二月、三月と続き、何時終わるとも知れなかった。大神様はそのお参りに来る同志に旅のお疲れに休養を取られることなく、ひきつずき朝昼晩、御説法を続けられるのであった。「本部はわしの休み場」と仰せられるにも拘らず、お休み場どころか、朝から晩まで平常の日は勿論、2と6のお休みの日もお忙しく過ごされのだった。

このようなお忙しい日がひきつずき、お帰りの後一年、二年と経過した紀元12年の9月であった。大神様は東京・埼玉方面にご出張の時である。その日までおそらく「疲れた」と仰せになったことのない大神様が心身ともに疲れ果てられたことを、朝床に身を横たえられたまま東京地方支部長の渡辺支部長に訴えられたのであった。

このことは渡辺を通じ、本部の者に、そして全同志に伝えられた。それは同志の驚きと悲しみと反省の大波となって同志から同志に伝わって行った。それまでの大神様のご肉体上の変化に全然気づかなかった同志ではなかった。例えばアメリカよりご帰国になった時からそのみ声の変化、また御説法中、何回となく水を飲まれることなどである。

しかし何時の間にか神恩になれきった同志は、大神様のご肉体に思いをいたすことさえ忘れておった。まさに忘恩の徒となりはてておったのである。それまでは「肚の神は日に2時間も話せば良いというておる」という神言を幾度かお聞きしながら、それを聞き流し、如何にしたら大神様にお休み願えるかということも考えず、日に、4,5時間もの御説法を平気でお聞きしていた同志であった、そして骨身を削っての大神様の御行であることに気付かなかったのである。

しかるに今度の東京での「わしは疲れた」と涙と共にうったえられたことは、このような眠りこけた同志の魂を根底から揺さぶり起こすのに十分であった。如何に大神様を酷使申し上げてきた私達同志であったろうか。何時の間にか利己神行に堕落し、大神様を物問い神様にしては、道場での御説法のあとまで、大神様に自分の利己のためにまといつき、お帰りを引き止めてきたという深刻な反省懺悔が痛烈に同志の中に起こってきた。「一人歩きの行」ーーこんどこそやらしていただき、大神様が一時でもお休み下さるようにと誓い、しかも、この誓いは一人歩きの行に徹することにおいてのみ果たされるものであることを知ったのである。このことにより「一人歩きの行」という言葉が同志の合言葉となった。