昭和20年1月8日

この頃は日本は敗戦色濃厚で、各地で玉砕(部隊全滅)が相次ぎ、まもなく本格的な本土空襲が始まろうとしていた頃である。北村サヨ様(当時45才:大神様になる半年前)は肚の神様の命ずる修業を続けさせられて、翌日には天人の香が立ちだしていた。しかし世間の大半の人は気違いになったと思っていた。この日付のお手紙が残っている。気品ただようお手紙である。受け取った人は8年前からの知人(松本千枝:国民学校教師、赴任時サヨ様宅に下宿)で、前年末に結婚が決まり、それを「北村のおばさん」に知らせた返事であった。結婚して山本千枝さんになった。

あけまして御目出度う御座居ます。本年も相変らず。何時も御無沙汰のみで申訳ありませんが気持は何時もおなじ気持で居りますけれど、何故か此の頃私の体が自分の自由にならなくなりまして困っていますのよ。夜も昼もあちこちと連れあるかれて面白い事ばかりやっています。この私の気持はおそらくだれにもわからないだろうと思います。まるで天国にでものぼって行く様な楽しい世界が開けました。世の中ににくい者もおしい物も、ほしい物もない。災難が感謝になり、不運が幸運になって喜ばれる様になりましたら苦しいものは何もありません。本当に人生の最大の幸福は我が心であるという事がしみじみ毎日のように味わわされて其の日其の日の、感謝の日暮しさして頂いて居ます。

次におなつかしい御便り頂きまして真に有難う御座居ました。その後如何なさいましたのかしら御案じ致して居りましたが、いよいよ御良縁が御座居まして御片付きなさいます由、誠にお目出度う御座居ます。御歳若き身で子供さんのおありになる処に御片付きなさいますあなたの御覚悟拝見致して誠に心嬉しく思いました。只今の日本女性はそれでなくてはなりません。昔のように我が儘勝手自分の事ばかりいうて居たのでは、到底此の日本を背負うて行く事は出来ません。だれでも我を忘れて御国の御為にお尽しせねばなりません。持場持場は違えども自分に天より命ぜられた仕事だと思えば何も苦しいものは、此の世の中にありません。どうかどうか今日此の手紙をお読みになって、こうしたお気持を末長く持ち続けて其の可哀想な親無子となられた子供さんを天から与えられた我が子だとお思いの上で神に誓って引受けて、不幸であった主人を助けて世の中に生かして何の気残りもない様に御国の為に働かして下さいませ。それが今日のあなたへの御願い、又おはなむけと致します。

他家へ行かれると思えば御名残りおしい様な、又一方でそんな美しい御心掛けで其の子供さんと御主人を助けに行って下さる天女の様な楽しい気持も致します。でも互に何百里も隔てるでもない、又何所かで御目に掛る事が出来ない事もありませんから、又御逢いして語る日のある事を神に祈って居ります。義人もあれきり何の便りもありません。どこかの空で生きて居れば御奉公している事と思います。又天に御まかせした子ですもの。天のなさるがままにして居れば安気なものです。私は忘れた日が多い位でありますのよ。だれの子でもよい少しでも御役に立つ子が居ればそれを引きのばしてやり度いような気がしますのよ。私のような気になったら天下広しですよ。大きな気になって互に日本の御国を一つの家として生きましょう。では末長く御幸福の程お祈り申上げます。御両親様にも別に御喜び状差上げます筈の処失礼致します。宜敷申上げて下さいませ。乱筆にて失礼致します。   さようなら

(注)北村義人氏は大神様の一人子であり、当時は陸軍士官(獣医の大尉:23才:部下340名)としてパラオの部隊にいた。(昭和19年4月−20年9月)直前の赴任地はアンガウル島で防衛陣地の構築をしていたが、ここは昭和19年9月全員玉砕であった。この後補給が絶えたパラオの部隊は極度の飢餓状態に陥った。バナナの葉、茎、根まで食べた。海に出ては、火薬を使って漁を行い部隊のために魚を取った。義人氏はこの経験から火薬のエキスパートになり、終戦直後の極度の物資不足の中で宿舎等の建設、道路、敷地の整備事業を行う時、大石を火薬で割って建設材料にすることまでも自ら行われたようだ。旧道場の石垣をこの眼で見ると興味深いだろう。義人氏が若くして大尉にまでなったのは陸軍委託生試験という全国の獣医生で毎年2名しか合格しないという超難関の試験に合格していたためである。合格祝いに「天下一家春」の額を藤井中将から書いてもらった。太平洋戦争が始まり繰り上げ卒業。少尉任官。この大出世が郷里の近所の人の嫉妬を生み、実家が放火された。この放火を契機としてサヨ様の神参りが始まり、3年後に大神様になられた。義人氏は昭和17年11月27日に日本を離れ、最初の赴任地は大激戦地のラバウル。本隊(この軍団に宇都宮連隊長として山口達春大佐がいた:天声236号中山氏追悼文参照)は昭和18年3月以降ニューギニアに転戦しほぼ全滅したが、義人氏は本職の軍馬の管理をするため、昭和18年1月本隊を離れて広東司令部に移動。この途中輸送船団は米軍潜水艦に狙われ、義人氏乗船の船は揺れに揺れながら機雷をかわした。船の下を機雷が通った。大神様は修行中で体を揺すり、肚の神はこのようにして義人の船は機雷をかわしていると説明している。広東では司令部が爆撃され上官が死亡している。義人氏は外出中で命拾い。広東の部隊はこの後ビルマに移動しインパール作戦に動員され、ほぼ全滅したが、義人氏は昭和18年8月チチハルに移動し、途中田布施に一時帰省した。チチハルでは軍馬の管理をし、馬の健康状態を良くして部隊長が喜ばれた。そのため昭和18年末に、先輩将官の嫉妬による追い落としを狙った文書紛失陰謀事件が起こり、身辺調査の対象になった。町田田布施町長夫人から知らされ、大神様の修行がさらに熱が入った(日に3度の神参り・10回の水行など)。この後部隊は秘密裏に日本に移動し横須賀を経由して東松輸送5号船団で昭和19年4月パナマ諸島防衛に投入された。関東軍の南方転用である。義人氏の軌跡は大神様の修行に深く関わっている。19才で少尉になり、これが近所の人の妬みを引き起こし、放火事件に発展。ご行の始まりであった。文書紛失事件の軍法会議での処理により、肚の者が神という確信を持たれたようだ。軍法会議を主導した大佐は異例にも1民間人にすぎないサヨ様に「ご子息は無罪であり、今後ともいかなる不利益を蒙ることはない」と手紙で通知してきた。
(注)この6日後昭和20年1月14日には米津さん(女性)を訪ね、「肚の神が米津の姉に拾い者がおる」と言われた。この姉富永みよさんは終戦直後の昭和20年8月23日に外地から無一物で帰還し、9月6日家族連れ立って大神様にお参りした。富永さんはそれから約20年間教団の形ができる前から、出来た後まで教団事務を一手に(無料奉仕で)執り行った。昭和21年2月には教団初の出版物となる「神行のしるべ」を執筆したことでも知られている。これは大神様第1回東京ご巡教の留守中、お祈りをしていると「今夜から一つ一つ教えてやる」という神声が聞こえ、それを筆記したものであった。
(参考)
昭和16年12月太平洋戦争始まる。日本軍緒戦は勝利。マニラ、シンガポールなど占拠。
昭和17年6月5日-7日ミッドウェー海戦日本海軍が致命的大敗北。航空戦力の中核を喪失。海軍は徹底的にこの事実を秘匿。陸軍省内でさえ知ったのは数人の首脳部に限られていた。指揮官山本五十六将軍が後に戦死したとき、国葬にするのを躊躇われたのは、日本海軍壊滅の責任者であったためらしい。
昭和17年7月22日北村サヨ宅火事。
昭和17年8月7日ガダルカナル島攻防戦が始まる。昭和18年1月まで周辺海域での消耗戦争で、日本軍は中核船舶100万トン、航空機多数を失い、事実上敗戦が確定。
昭和17年8月12日北村サヨ様ご行が始まる。
昭和20年8月12日宇宙絶対神降臨。日本ポツダム宣言受諾。
昭和20年8月15日、敗戦。