贅沢と質素

わしが東京へ行くと駿河台ホテルの者は「是非来て泊まってくれ」と真心から言うので泊まったが、晩飯の残りを、わしはそれを明日の朝食うからのけといてくれ、と言ってそれを食った。「よそからいろんな人や宗教家が来るが残り物を食べる人はいない。教祖様ともある方が、、、」と言うが、わしは物を粗末にするのが嫌い。あっても贅沢に流れるな、なくても不平不満を言うな。それが神教よ。
自分が棄てなければそれだけ天の物を粗末にしなかったのだから、自分に必要なければ子や孫にその功徳がまわるのだ。物を粗末にすると罰が当たるよ。罰を当てる神はないが、皆知らず知らずに罰の種をまいておいては、それに突き当たっては困った困った言っておる。「神の国には無駄がない」蛆の世界じゃ何かことをするといったら、飲んだり食うたりして、いらん経費ばかり使っておろうが。新道場建設の支部長会議を開いて一億に余る建築の打ち合わせ会をしたが、皆自弁自費で、飯も菓子も出さん。麦茶をたいて出しただけよ。じゃが皆真心からやってくれる。このようなことが天が下、外にあったら出せ。
ハワイの人間は金を儲けては使い、儲けては使いする。水の流れるように金が流れて来るのじゃが、儲けた時に貯めておけば困ることもないのよ。儲けてもぜいたくをすると神様はさっと取り上げる。子供に多く物をやると粗末にするので親が「もうこれだけでよい」と言って取り除けておくだろう。神様もあれと同じことをやるよ。
イカを食うても沢山やると子供はええ所だけ食うて赤い所が残っていても次々に食い散らかすじゃろう。じゃが少なかったら白い所までも綺麗に食う。あってもなくても感謝で食べることよ。
一粒の米でも3日で出来たものはない。皆種をまき、夏にクサ取りをして秋に取り入れをし、一年かかって出来ている。一粒も百粒も同じことよ。皆生命がある。神が作ったものじゃから。
どうしても食べられなくなった時は何でも生き物と同じこと、葬式をして棄ててやれ(お祈りをする)。皆沢山炊いて余らして捨てるようなことをするなよ。わしは物を炊いて腐らして捨てるようなことをしたことがない。一物たりとも天父の物。一物といえども皆神様が作ったものだ。「何、神が物を作るか」と言うが、違う。この扇風機でも皆人間を使うて神が作った。人を使うて神が作ったということを忘れている。始末とケチケチとは違うのだ。わしは一銭の無駄もしないが、昔は寄付でも部落で一番だった。
わしは昔は何かといえばハイヤーに乗ってあっちこっち出かけておった。田布施の街にも何度も出よったが、神に使われるようになってから自由がきかなくなった。朝水かぶり夜水かぶり、日に6度も水をかぶって、2里もある道を自転車に乗って行しに行きよった。今頃やれと言ってもできないが、あれも行の過程じゃった。九州の黒土へ説法に行った時、わしは駅からハイヤーに乗ろうとしたら、或同志が「大神様はハイヤーに乗られたら行にならない」と言って止めた。わしの肚はカンカンに怒って「おサヨがハイヤーに乗ったらいかんという理由がどこにあるか」と言った。
(注)これは大神様のご説法の一部である。
(注)ある早朝大神様は前日交通事故で重傷を負った徳山の同志仲子を手当して救うために、自宅療養中の同志宅に行かれた。肚の命じた時刻の列車に乗り駅で下車すると肚の神様は「ハイヤーにのれ」と言われ、大神様がタクシーを拾おうとされると、迎えにきていた仲子美敏さんさんが「ついそこですから」と言って歩かせた。大神様が骨折の手当をされて、急いで駅に行くと、ちょうど列車が出発する所だった。肚の神様はここまで見通されていたことがわかる。タクシーをやめたため説法時間までに戻れなくなった。そこで仲子美敏さんは大神様の依頼でトラックで大神様を自宅(道場)まで送り届けた。この時非常にスムーズに車が流れ、ガソリン消費も信じられない程少なかった。説法時間にまにあった。仲子美敏の弟は治った。
別の例では、ある同志が道場に迷い迷いして辿り着いた。タクシーに乗れば簡単だった。と指導された。
別の例では、同志が奉仕をしていて、帰りの列車時刻が迫った時、タクシーを呼べといわれた。
贅沢の基準を考える時参考になるご指導である。
(注)無駄遣いしないこと。物も金も時も活かして使い、死に金を使わないようにしていくと、金は回ってくる。心を物質に置かない。これらすべてが「あっても贅沢に流れるな、なくても不平不満を言うな。」に含まれているようだ。天声751号(紀元10年7月22日用に巡教先のロスアンゼルスから送られたご説法)P42-P45に「あっても贅沢に流れるな、なくても不平不満を言うな。」の意味が詳しく説かれている。「欲しがりません。勝つまでは」というような贅沢禁止令とは違う。長期的な家庭の財政・収支計画まで見てお金の使い方をコントロールすることまで含まれている。
(注)「一物たりとも天父の物。」この意味は(1)物・金・人など生かして使う。自分に必要なだけを消費する。お金を節約するため、食事の量を減らしたり、おかずの品数を減らすようなことはするなと注意された。体に必要なだけを買い使う。金額の多少は、本人の収入範囲であれば問題はない。食べれない量を買い無駄に捨てることが罪になると教えられた。食べ物への感謝が大事。旨くても不味くても感謝して食べられるようになれれば、精神が安定し体にも良い。(2)自分の物・金、自分が買った物、自分が作った物に執着せず、必要な時には、他人や公共のために使う。しかし注意すべきは、自他の区別は厳密につけ、他人の物の流用は盗みになるから厳につつしむ。
(注)「取ったと思ったら、取られている。儲けた思うたら損をしている。どこで算用が違うのか?」我々は自分だけが儲けよう、得をしようと汲々としている。相手のことを忘れている。自分だけがあくどく儲けると、相手は損をしてこちらを恨む。自分が相手からむしり取れば、相手は恨む。因果律とは作用反作用の法則に似ている。因果により今度は自分が恨みを与えた相手にしたことを、生霊により誰かにやり返される。つまり取られる。この自分だけが得をしよう。相手も自分だけが得をしようとせめぎあう世界は「餓鬼道の地獄界」である。この世界には本質的に勝者はない。勝てば勝つ程業の種は増す。唯一の勝つ道はこの世界を抜け出すこと。1つすぬけをしてみれば、そこは美しい神の国