神の化身

大神様程、不思議な存在はない。その不可思議さは、仏陀(釈迦)の不思議さと同じだ。1000年たっても分からないだろう。
大神様は人間か?
大神様の人間名は北村サヨ(結婚前は浴本)である。(釈迦の人間名はサルヴァシダルタハ・ゴータマ。略称はシッタ王子)。山口県の日積村に1900年1月1日浴本家の4女として出生。釈迦は王子として富裕な生活をしていたが、サヨ様も金に困らない生活であった。浴本家は大農家であるだけでなく、アメリカからも時々送金されていた。これは継母から虐待されていた近所の子供を見かねて引取り養育した事があり、その子が長じてアメリカに渡り、恩を感じて送金してきていたためだ。彼は晩年病身で単身帰国し、浴本家の嫁は厄介者と見て、着くないサヨ様に送りつけてきた。サヨ様は入院させ付き添いもして看病を尽くした。彼は死亡直前にかなりの金融資産をサヨ様にすべてわたした。サヨ様は北村家に嫁入りしていたが、北村家も大農家であり、夫は以前ハワイに働きに行ってためた大きな資産を持っていた。初めは嫁いびりで極度の困難を体験したが、やがて家の主導権を得てからは富裕な生活であった。当時の大卒初任給は30円であり、そのぐらいは一日で使っていたという話もある。ただ自分のためだけでなく、人の為に多く使っていた。菓子類でも問屋から仕入れ(消費者でなく店が仕入れる量)訪れる人々や世話になる近所の人に気前よく振舞っていたようだ。
シッタ王子は学問でも武術でもスポーツ競技でも何をやっても一番で飛び抜けていた。サヨ様も全く同じで、何をやっても抜群であった。牛の飼育では品評会で表彰され、出荷前に餅米を食べさし、マッサージして肉質を上げるなど、現在の松坂肉などの飼育法の先駆けまでやられている。農作業での牛使いも農業指導員より巧かった。田植えも手早くうまい。松茸採取も何十キロも採ったりしている。料理は何を作っても早く作り・超美味。漬物や味噌まで自家製。舞踊の指導も絶品、生花は創作生花で豪快名人。機械類の取説は一度聞いたら忘れない。数字等はすべてメモなしで覚えていたようだ。木登りは得意技。米俵(60キロ)を軽々担ぐ。
シッタ王子は慈悲深く多くの人や動物を助けた。サヨ様も全く同じである。参照:
預言者と偽予言者 http://d.hatena.ne.jp/Newshirogarasu/20130104/
大神様は人間であったのは確かである。何万人もの人が人間(北村サヨ)を見て話して接している。しかし特別の人間、3千年に3人しかいないような人間の概念を超えた神人である。神様に使われていた人間というよりは、神様が人間に化けていた(化身)と感じている多数の同志(例えば若神様、奥様)もいる。若神様は「大神様は人間が修行して大神様になられたのではない」と話された。これは釈迦が胎児の時、誕生の時から仏であったと考えている優れた仏教徒がいるのと同じである。釈迦が修業して成仏・成道したのは事実である。しかしそれ以前から仏であって、子供の時は、人間として子供はどうあるべきかを教えており、それ以後は在家仏教徒としての模範を示していた。成道後は出家僧としての模範を見せた。つまり釈迦の全人生は仏として人類にあるべき姿、行うべき規範を示し続けた。大神様も全く同じで、宇宙絶対神降臨以前から、子供時代、主婦として、社会人としての模範・人間道とはこれよと、示し続けられている。神になられてから、以前とやっていることに全く違いがないとも言われている。(因縁を見ること、お祈りをすることだけが違うとも言われた。)
人間には3段階があるようだ。
①大神様を完全に神様と信じている同志。
彼らに大神様は神様としての姿を一度は現せられ、見せられ、植え付けられた。金色の後光に包まれていたり、まばゆい光の玉が現れたり、神言葉が象牙や宝石として現れたりしている。お写真から姿を現せられたり、微笑まれたり、怒られたりもしている。夢でのご指導も多い。神力を示されてもいる。「魂磨いて神人合一になった人間は、大神様を見て(宇宙絶対神を感得)大神様といって合正する。」このようなご説法もある。
②大神様を神様と信じているが、人間の常識の範囲での神様から踏み出せない人々。これはさらに多数いる。
大神様はご説法でしばしば、「神様か?と聞かれれば、馬鹿、わしは肥たごかつぐ百姓の女房。神様に使われている。おばさんと思えばおばさんだけの返事をする。何の値打ちもない。」という趣旨の話をされている。神様か?と聞く人は、神様か?と疑う人である。馬鹿であり、神様を本当は知らない人である。彼らは神様を知る必要がある。そこで「大神様は人間であり、宇宙絶対神が宿っている、大神様の言葉・行為・日常生活は神そのものの教えである」と教えられたようだ。大神様は宮であり、天照大神(女神)・皇大神男神)2柱の神々が宿られている。この宮(仏教の応身仏:ヨハネによる福音書2.21[イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである])という概念が我々には理解し難い。特に日本人同志は入教前、絶対神を拝む宗教を持たなかった人が多く、大神様が三神兼ね備えた一神であることがいつまでたっても分からない人が多かった。そこで「日本人の馬鹿は相手にしない」と度々言われた。参照:金剛身:http://d.hatena.ne.jp/Newshirogarasu/20130523/
自分が喋らなければ宇宙絶対神の言葉は聞けまいと言われた。この言葉は実に深い。3千年前からの神の隠しだねという話もある。
神様が降臨された時神様が言われた。「おサヨ、われの口と心と体を貸せえのう。外にはなんにも要らんから」「口と心と体貸したら、おら何がおらの物か。おらの物はないじゃないか」「その肚だけはわれの物じゃ。真心だけは持っちょれや。肚がなかったらやれない」。この結果、心(意行)、口(言葉・語行)、体(行為・身行)すべてが神様であり、人間(サヨ様)の自由になったのは肚と真心だけだったことになる。人の神行のステップは人間道を歩み、反省懺悔とお祈りを続け、心の掃除に励み、自分を神様の国に住めるように直し続けることである。このステップでは肚と真心と祈りが神様との接点になり、人間(自分)の心・口・行いを直して、神様に近づく。
対照的に、大神様は始めから、口・心・行いが神様であり、人間との接点として肚と真心と祈りを持たれているようだ。
祈りが接点である例:駅で来られる筈の大神様を必死で捜していた同志が見つけられなかったが、大神様は彼にお祈りがなかった為会うことが出来なかったと話された逸話もある。今でもお祈りすると(天界の)大神様と繋がるらしい。
真心が接点である例:大神様に魅せられ大神様を慕い無条件で付いて行こう、殴られても蹴り飛ばされても付いて行こうとなった真の同志は、大神様の真心に触れた人々・大神様の真心を感じられた真心持ちばかりであった。この真心持ちの人々に映った大神様が、人間が持つべき神様の姿と言えよう。(御像の表情決定は奥様がされた。)この意味でも、天声680号p122からの奥様のお話は貴重である。神が取るのは真心だけと言われた。
肚が接点であるのは、「やる肚作れば、やれる神様つけてやる」という神言でわかる。
神様のやられることを人間が自分の理屈で理解しようとしても不可能だ。神様の計画は人間には不可知の領域。頭で理解しようとするのは不毛である。
人間は37兆個の細胞からできている。ニキビができれば、何のためらいもなく潰す。(その箇所の細胞を殺す)宇宙絶対神は個々の人間を自分の子供・分身・細胞と見られているようだ。癌や出来物ができれば、取り除かないと人が死ぬのと同じことが起こる。細胞が人の行動を理解できまい。
③大神様を人間(おばさん)としか見れない人々。これが大多数。
道遠しという人々である。道遠しという人々のことをスウェーデンボルグは次のように書いている。
天界を考えない者は、すなわち天界を存在させている(根本の)神を考えない者は、天界の最初の入り口へも挙げられることはできない。彼は初めそこにくると、抵抗とまた強い反発を感じる。実に彼は天界に近づいて行くに応じて益々彼の内部はきつく閉じられる。
古代の人間は神的存在を人間として考えた。彼らは神を人間として見たものの、依然神を宇宙の神として崇拝して、彼を天と地の神、エホバと呼んだ。しかしすべてのものを外なる感覚から判断する者には「神が人間であられること」は容易に把握できない。感覚的な人間は世的なものを越えて考えることはできず、神的人間も霊的人間も普通の凡人と同じにしか考えられない。彼は次のように考える「もし神が人間であるなら、彼は宇宙大の大きさであろう。もし彼が天と地を支配するなら、それはこの世の王が支配するように部下を使って支配するだろう。」天界の広がりは世の広がりのようなものではない。測定できる広がりではない。誰でも視力は非常に遠方にある太陽。星まで見れる。思考の視力はさらに遠くまで広く見える。さらに内的な視力はさらに広いに違いない。神的視力の届かない物はない。
(注)スウェーデンボルグは最上級の聖人(天使)は神を愛する人と書いている。人を愛し続ける(恋し続ける)能力は神に通じる。次の文章の○に「仏」「大神様」「イエス・キリスト」「A」と入れて読んでみる。
Xは寝ても覚めても○の事を考えていた。常に心の中心には○があった。○の微笑む顔を思い浮かべては幸福感を味わい、悲しそうな顔を思い浮かべては反省していた。常に○の言葉を心に置き、気に入られるように努力を欠かさないし、○の嫌がる事は決して行わないように気をつけていた。○と共にいたいと願い、引き離されるのは恐怖ですらあった。○の声は魂を揺らし、心は熱く燃える。○は自分のすべてであるとまで感じている。
例:○に仏といれたらXは河口慧海のような人物になる。○に大神様といれるとXは姫神様のような人になる。Aといれると恋に恋する女子高生・「メゾン一刻」の世界になる。天声408号にピアス博士の一文があるが、彼女が大神様をいかに愛していたかが良くうかがえる。そして彼女に大神様がいかに現れていたかも良くわかる。2番目の天使は隣人を愛せる仁慈の人で、この愛する能力は神を愛することから派生した愛であるとスウェーデンボルグは言っているが、この愛の能力を大神様からピアス女史は与えられたという自覚をもったと書かれている。(天声312号P52)
(注)神様を理解するヒントは霊界と人間の関係。霊界だけでは、霊が霊を教えたり、救う事ができず、生きている人間を媒介にしないとできない。人間は現象界に肉体を起き、心が霊界にあり、言葉は霊界にも現象界にも届く。神様も生きている人間の霊に憑いたり、影響しない限り、力を発揮できない。生きている人間を通してだけ、祈りが力を持ち、霊界を再構築したりできる。生きている人間の心に、ゴミ(悪、利己心、煩悩、邪念)があると悪霊(邪神)が入り、神様は隅に遠くに追いやられ、力を発揮できない。ゴミが減ると、悪霊が追いやられ、神様が心の真ん中近くに来て力を得る。人が八百万神になった状態。この生きている人間に、ゴミが全くないと、神様だけが心に入る(大神様)。宇宙の男神・女神がともに入り、生きている人間が宮になる。神様が全能力を、霊界にも現象会にも振るえる。大神様が「肚に祈れと言われて、一晩中祈らされた」この意味がこれで解る。