幽霊と科学

幽霊などいない。科学常識を知らない人が言っているだけだ。と良く言われる。ところで、その科学は一体何を主張しているのだろうか。先日放送されたNHKスペシャル「神の数式」は面白かった。これに刺激されてネットをみると、ゲージ理論とか、YouTube 超弦理論宇宙論シリーズなどに行き当たる。分子、原子、素粒子クオークなどの粒子)の解説もある。カラークオークというのは6次交代群置換群)のエレメントのようだ。数学的実態ははっきりしているが、このような抽象的な作用素が物質そのものだ、と言われると???
真空とは、ハイゼンベルグ不確定性原理により、粒子、反粒子が生成、消滅している超高エネルギーの場らしい。またこの全宇宙は137億年前の、たった一度の大爆発(ビッグバン)で生まれた。これらにはいずれも理論があり、その理論が予測する現象が観測されていることで正しいとされている。またその理論(相対論、重力、電磁気、核力、弱い核力)が、数学的対称性を追求することで、純粋に導き出されるというのもすごいことだ。(重力方程式、シュレジンジャー方程式、ディラック方程式、マックスウェル方程式などが数学的操作のみで導出できるそうだ。)相対論から導かれて原爆が作られたのも事実だ。スマホが作れるのも量子力学のおかげ。
数学的思考と操作では疑念はないものの、この結論は我々の生活実感とは無縁のものだ。神が宇宙を創った。というのと、(無から有ができたという)ビッグバンで宇宙ができたというのは、どっちがもっともらしいか?(ビッグバン前はどうだったのだろう?)物質は分解していくと、SU(2)xSU(3)の10次元の紐状のエネルギーの実体化したエレメントだ、というのと、霊界があり、現実世界はその影であるというのと、どっちがもっともらしいか?(多分両方正しい。)
つまり科学というのは、まっとうな、容易に誰もが想像でき、賛同できる、ことを言っているだけではない。石原慎太郎氏は、科学も宗教のひとつだ。と言っていたが、卓言である。(最高の科学者が最先端の研究成果を素人集団中で話したら、どんな時代でも、確実に気違いと判定されるだろう。宗教も同じでキリストも大神様も最初は気違いと言われた。)
ところで神様(大神様)は幽霊はいると明言されている。例えば昭和36年11月3日の説法では
昔には憑き物がするといえば迷信。幽霊が出るといえば迷信と言いよった。わしが喋り始めた19年頃に、肚の神が「おサヨ昔には幽霊が出るから寺を建てたが、多少でも行しよったから幽霊がとれた。末法になったら寺も墓所も幽霊だらけぞ」と言いよったが、みんな幽霊の巣になったのよ。迷信迷信と言いよったが、今度はその迷信の世の中になるのよ。道場に古くから来る者は覚えちょるじゃろう。個々に来りゃ、お前幽霊が憑ちょる、やれ犬神が憑ちょる、いや生霊が憑ちょると言われりゃ、それが一番嫌いじゃったろうが、それが今頃は、具合でも悪けりゃ何か憑いたんじゃあるまいか、と直ぐ思うじゃろう。それだけ実相世界に眼が醒めて来たのよ。
神行とは神に行く。合正とは正しく合う。絶対なる神のみ肚に合うように、自分の心を掃除して、自分の我を捨てて絶対なる神と共におって、神の給う祈りを祈って行くところに、だれでも法力が与えられる。神に無我で使われる者に神そのものが直接持たせるものが法力。法の力よ。
神様が無我で使おうと思うても頭に先入観があったら、先入観と無我とを照り合わすから分からなくなるのよ。それで学者と宗教家が一番救われないと言うのは、学者になったり宗教家になったら、それぞれ先入観を持っておってそれを無我と照り合わすからよ。(以下略)
「科学常識」は常に正しい、という先入観を我々は植えつけられやすい土壌にいることに注意しないといけないだろう。さらにこの説法は興味深いことを多々言われている。
昔に盆の13日とか彼岸の中日とかには、餓鬼の首がゆりるとか、地獄の門が開くとか言いよったが、地獄の門が開いて今ここに皆出てきちょるのよ。
スウェーデンボルグがいう霊界の乱れが極に達すると、救世主が現れるという話と符号している。
(注)法力を体験している同志は極めて多数いる。お祈りし手が上がり、(不運の原因の悪霊が済度されて)劇的に状況が改善するというように。アレンカーという海外同志につき、大神様が説法で話された内容はすごい。「(皆の)お祈りの最中、大神様に(霊的交信で)アレンカーが言ってきた。この中に白血病の人が一人いる。これを今、お祈りで治してやってもよろしいか?大神様は、それを許可しなかった。理由は、白血病で苦しむだけの因縁があり、彼はまだ救われるだけのことを満たしていない」というような内容だった。アレンカーには白血病の根本原因である悪霊が見えていて、それを済度できる腕もあったが、因果の理法を司る神様はそれを許さなかったという。別の例では、同志の教師青木要氏が修学旅行先で、生徒が事故で意識不明になった時、お祈りで治した。それを大神様は厳しく注意された。法力は世界平和のために与えられているのであって、神行と無縁な人に振るってはいけないというものだった。
(注)初期の頃は、同志が布教の端緒とするため、困っている人をお祈りで救うというのが良く行われた。某支部長は、病人の側で何日も徹夜で祈り続けたり、病人の家族から手遅れになったらどうしてくれると言われると、私も一緒に埋葬してくれとまで言った事例もあった。ハワイ、インドなどでも多数この種のことが行われた時期もあった。このようなことをやるな、医者・薬を使うのをためらうな、神行と無縁の人に祈るな、という指導が大神様からされるようになった。唯神行の障害となっている悪霊を済度するため、共に祈ることは良いとされた。子供など家族のために祈るのは良い。しかし祈ってくれと頼んでくる人に祈ってやるのは増上慢であるとして禁止された。(例えば紀元21年説法開始記念日説法:1966年)
もう一つの側面は、助けてあげようとして、お祈りをすることの危険性である。相手に付いている悪霊(犬神や狐)が自分に移ってしまうことがあり、その悪霊が強力な霊力を持っていると、その済度や追い払う(落とす)ことができずに、自分が病気になってしまったり、命を亡くすことすらあるようだ。その憑かれている人が悪人で、実はとんでもない悪事をやっており、その当然の報いとして悪霊につかれて苦しんでいるケースもある。その場合は、お祈りの対象ですらないこともあるようだ。
更に、お祈りで医者も見放す重病人を助けたりすると、自分は有頂天になり、増上慢になってしまいがちである。結局、自分の魂が後退してしまうことが多い。これも禁止された理由かもしれない。長年に渡り、神通を度々振るい、病人を多数直し続けたのに、そのことに全くとらわれず溺れなかった例外がある。若神様であり、神様であった現れである。
(注)科学と唯物論(目に見える物だけを在ると見る主義)とは異なる。科学の基礎に数学がある。数学では虚数という物を承認していて、当たり前として使う。しかしこれは目に見える物でない。高次元なども同じ。数学では論理的整合性だけを問題とし、この世にモデルが実在するかどうかは問題でない。科学は、’この世にないもの’を数学に繰り込んでいるため、そのことを意識しないだけである。e**iπ=-1が典型。波動と実体を結ぶ。一方数学は、’この世にある’ものですらすべてをカバーできていない。例えば言語である。言語の意味を加味すると、数学ではほとんど手に負えない。assosiativeというルールが成立しないためである。
参照:ジョセフソンの科学と心霊の統合について
http://d.hatena.ne.jp/Newshirogarasu/20110110/
量子物理学の優れた紹介
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