世の末

神歌の最初は「ああ美わしの神の国 世が乱れたるあかつきに 天なる神が天くだり」である。大神様は第2次世界大戦の最中から御行を始め、修業を積み、大戦末期から布教を始めた。ポツダム宣言受諾の決定した日に「生きた天照皇大神」になった。敗戦翌日から最初の(実質)公開説法を開始している。肚の神様は、このタイミングを非常に重視していて、「おサヨ、早く行せい。お前が5年前から逆立ちして説いても誰も聞きゃせん。1年遅うても間に合わんのど」と言った。

原爆が広島に落ちた時、「天から火の雨が降る時、天地がひっくり返る」という仏教の話を思い浮かべた女性(谷口敏子)がいた。それがどの経典かはわからないが、法華経にも似た話がある。世の末になったように人々が見ていても仏は常在しているという趣旨の世尊の説法である。法華経如来寿量章「或る時この世界を衆生が 劫火に焼かるることを見て恐れん時 その時わがこの浄土は 神と人とが全く満つることとなるべし 彼らは互いに愛して諸種の喜びをたもてり 庭園にて巡れる千萬の堂舎伽藍あり 寶の山等と並びに 花と果を保つ所の樹木等を飾れり 上より神等は太鼓を最もよく打ち 曼陀羅華の雨もまたよく降らん 他の智者のこの菩提に入れると 我と聲聞等に明らかに散ぜん わが土はかくの如くに常に住すといえども 他の者はこれを劫火にて焼かると解せん 百の苦患を以って或者は苦しむと 世界は甚だしく破壊することを見ん・・・」
 劫火が下り世界が破壊される。その時地上天国の神の国が出現する。しかし福徳のない人々はそれに気づかないという釈尊の予言である。

 谷口さんはこの神教では有名な人である。昭和22年(紀元2年)焼け野原となった呉市駅前で大神様を見、宇宙絶対神のご降臨が解り「お釈迦様のご再来」と親戚中などに説いて回ったが、気違い扱いされ、7年間人々に叫び続けたが誰にも相手にされなかった。その後、彼女は妊娠8ヶ月で盲腸炎から腹膜炎・腸閉塞をわずらい、手術となった。お腹は熟柿のように腐り、縫うこともできなかった。大神様が救ってやろうとお祈りされた。そのお陰で手術は無痛で空中を舞っているようだった。2ヶ月で退院できた。同志にならない夫に内緒で伝道に励み同志も多くできた
 紀元16年、夢で大神様のご指導を受けた。10cmぐらいの白いメスで彼女の腹をサッと切られた。実際直ぐに腹が痛み出し、3日3晩焼け火箸を突っ込まれたように痛んだ。この3日間肚の底から反省懺悔した。自我の強い罪穢れの多い自分を、この行をとおして真人間へお導き下さる神慈悲に感謝がでた。襲い来る痛みのたびに、「これでも直さぬか、これでも直さぬか」という大神様のご指導を感じ「大神様有難うございます」と感謝を続けていた。とうとう腹に穴が空き臭い膿がどっと出た。これで直腸癌が治ってしまった。しかし医者は理解の限界を超えていてポカンとしていた。大神様はアメリカ巡教中であり、手紙でお礼すると、「腹の中が全部腐っていた。きれいに巣抜けしとる。肚の神がよう肚を作ったと喜んでいる」と言われた(天声174号)。

 大神様より夢の中で手術を受けた例はほかにもある。
 10年来顎から首にかけて大きな腫瘍ができて体が衰弱した女性(長尾絹枝)がいた。紀元42年ある夜夢に3歳の孫が廊下を走って来て、彼女の肩をたたいて起こしてくれ、小さい手を合わせてお祈りし、その手が上がると逃げ、また来てはお祈りして逃げた。大神様が「祈れ、祈れ」とご指導されていると思い、翌朝弱った体をおしてご本部に参り、田んぼのご奉仕にも参加し、夜は救護室で休ませてもらった。 翌日牛乳1本を飲もうとしても喉を通らなかった。子供が心配して「医者に行こう」と言ってくれた。するとこれまで長年子供に対し厳しい躾ばかりで、少しも母親らしい優しさがなかったことに気づき、泣く泣く大神様に懺悔した。その夜の夢に大神様は真っ白い洋服を召され「長尾手術をしよう」とおっしゃり神手を喉に当てて優しくさすってくだされた。この手のひらの暖かさをはっきり覚えている。目がさめ「大神様」と声を上げて泣いた。するといつも首に巻いているタオルが真っ赤な血で濡れ、大きな腫瘍は消えていた。(天声415号)

 生まれつき体が弱い私(古川久子)が、主人の代わりに牛使いをしましたところが、背骨から肋骨にかけて痛みだし、発熱する始末で、肚のない私はとうとう医師の手当を受けるようになりましたが、何の効果もないので、ふと《なさるがままの行》と肚をきめ、お祈り一つで暮らしていました。
 ある夜の夢で、大神様が「お前には灸をしてやろう」と仰せられ、ミゾオチから7センチほど上を、親指でギュッと抑えられ大きな灸をして下さいました。すると肋骨の間々から蒸気のようなものがシュッシュッと吹き出て、その気持の良いことは今でも忘れることは出来ません。胸の中の隅々まで洗いさらしていただくような感じでした。その翌日からあの頑固な鈍痛はさらりと取れました。それから何年もたちました今日まで、一度も痛んだことはありません。何一つ実行できていない私のような者にすら、ありがたいご指導をいただくとは、もったいなさにいっぱいでございます。(天声69号)

 夢で医師だった亡父が手術してくれて慢性盲腸炎が治った同志もいた。(天声461号P93)
 
 大神様のお祈り、同志のお祈りで奇跡的に助かった例は無数にあるが、腹膜炎で天声に書かれた事例。
 名賀石さんは紀元11年旅先で氷を食べとところ、急に腹が痛み出した。連休中で医院が休んでいて手遅れになった。痛さに耐え切れずモルヒネ注射を打ってもらい、2日間昏睡状態になりやっと帰宅。医者は原因不明とし、結局大病院に回された。何日も前に盲腸が裂け腹膜炎になっており、手術後に傷口を縫えなかった。膿が出続け、20日も便通はなく、抗生物質の大量投与で命だけは取り留めていた。関わった外科医は延べ25名に及んだが絶望視されていた。本部から有る用件で手紙が来て、そのやりとりから大神様の知る所となった。すぐお祈りされた。名賀石さんは便通を催し、縫ってない腹なのに20日分の古便がでた。2日後退院するまでに完治したが、医者は「神行している人には不思議な力がある。こんな例は今までなかった」と言った。名賀石さんはそれまで酷い歯周病で口臭がひどくて困っていたが、この大病を期に歯周病は完治していた(天声35号)
 
 岡田博邦さんは戦前、重光葵外相秘書官をしていて、大神様ご出京時GHQが調査に来た時、居合わせ通訳をした人だ。また『生書』英訳の原稿を作った人であるが、同氏の長男は盲腸炎で切開手術を受け、退院後養生せずにいたため、後年傷口が開き、膿がどんどん出だした。ペニシリン注射で命を持たせていたが、家族は困惑していた。そのうち傷口から大便まで出るようになり、医者も余命2週間と見放した。両親が神行していたため、彼は田布施に行きたいと望み(昭和23年頃)、東京から単身でかけた。田布施に来た岡田さんに「神を慕ってきた者を蹴落とすような無慈悲な神は天下にない。3日辛抱せよ」と大神様はおっしゃり、御自らお粥を炊き食べさせた。3日で治り、3ヶ月本部で行をして、すっかり健康体になって帰宅した(天声2号)。

 ある同志の一人娘Aさんが盲腸炎になり大変苦しんでいた。その地の中心になっていた同志・南村くまえさんはお祈りで治ると信じていたが、手遅れになると危ないとAの親は思い、医者に連れて行こうとした。南村さんは「医者も薬もいらない世界がある、とプラカードを持って伝道したではありませんか、天はいるものは生かして使う、という神言があるでしょう。大神様を信じていったら殺されはしません。もし娘さんが死んだら私も一緒に死にます」と言ってお祈りした。するとAさんは、洗面器一杯に、口から腐った物が出て、完治してしまい翌日から縫い物講習に出て行った。
 南村さんの霊能体験は多数あり、急に倒れて意識不明、死んだようになった人に、皆でお祈りしところ蘇生した。「真っ暗な闇の奥のずっと深い小さな穴から光がさし、それを見つめていると、名妙法連結経とかすかに聞こえ、少しずつ大きくなり正気に戻った」と助かった人は言った。Bさんは長年胃が悪く、ご飯が食べられず痩せこけていた。南村さんが背中をさすりながら、名妙法連結経を祈るたびに、牡蠣のような痰が洗面器一杯に出た。それで完治してしまい、2日後はカレーを食べていた(天声212号)・
 この南村さんのように優れた霊能者は天照皇大神宮教には沢山いる。同志の天声などに記載された霊体験を拾い集めれば5000件~7000件以上はありそうだ。私が同志から聞いた事例は天声には出てないことばかりだったから、ここから推測して、天声などに記録が残ることは例外で、教団全体では霊体験は何万、何十万例とあるかもしれない。霊能体験は、本人が増上慢になりやすいため、最近はあまり言わないようにしているようだ。
 
 (注1)大神様を除いて、最高の霊能を長年に渡り発揮していたのは(大神様のひとり子・北村義人氏、通称、若神様)である。釈尊のひとり子・ラーフラ尊者が神通第一と称せられたのにあまりにも似ている。法華経で世尊はラーフラについて次のように仰せられた。このラーフラはわが長子にして わが出家せざりし時は愛子なり 菩提を得てもまたわが子にして 大仙人の法の分配を持てり 未来時に於いて多数千萬の仏陀を 無量に見奉るべし 菩提を全く求めんがために 彼ら勝者の総ての子と生るべし ラーフラはこの行を知らずして この誓願を我は知れり 我は如来の子なりと 世間の友に揚言せり ラーフラなるわがこの子の 功徳は千萬億無量なり それには何時にても量を知ることなし かくの如くこれは菩提のために住せり(河口慧海訳・法華経:アーナンダ・ラーフラ・2000比丘授記章第9・P209)