真珠

丸い丸いまん丸い真珠のような心を持って神の元に来い。これを釈尊は左手の指で丸を作り、右手でこちらにおいでと掌を伸べている。仏像や地蔵の印形はこういう意味だ。お金をくれということではない。
このような意味の話を大神様がされたことがある。神が取るのは真心(寶珠心)だけ。
死後の人間に残るのは魂だけ。生前の地位や金や財産は無関係。この魂が真珠のように丸い真心だと神様が取り天国に置く。汚く汚れておればゴミ箱(地獄)に捨てる。
いい人いい人、どうでもいい人。という神言もある。この意味は、ずっと我慢し我慢し、良い人、立派な人を演じ続けてきたが、心には不満と怒りが蓄積した人について言われ、心の中が不平と怒りに満ちていれば神は取らない。世間ではいい人と言われてきたが、地獄に落ちている人が多いことを指摘された。
世間道徳は重要だが、それだけでは成仏しない。
初めは良い人になろうと努力し、我慢を重ねることが必要である。これが十分に行われ、徳を積み回りに迷惑を掛けない人に成長する。次のステップは心の掃除。この良い人が演技でなく、本心からできるようにする。この段階では、遠慮なく、良いことは良い。悪いことは悪い。と言い、心に不満や怒りを貯めない。これは傍若無人の我儘とは違う。心に神があり、良心に基づいて行う。難しいのは傍若無人にやっていても、心では正しいことを実行していると確信していることもある点だ。人に迷惑を掛けていないか、人を治そうとしていないかを反省する。正しいのは、自分を治すためで、人を治すためでない。
共磨きが重要なのは、この反省の機会が多いためである。不思議に自分の心に潜んでいる汚点が引き出され自分に晒される。これは不思議という他はない。汚点を多く残したままでは、神様は取られない。磨きの会にでる重要性がここにもある。
これに似た話が法華経にもある。
①大海龍王の女が寶珠を釈尊に捧げ、それを直ちに釈尊が慈悲心で受けた。そして直ぐに女は仏になった。(宝塔示現章)
②観自在菩薩(自我が無い天使:完成された聖人)と無尽意菩薩(自我が残った良い人:修業途上の人)の対比をした話で、
世尊に無尽意は「私は観自在に法の供養をしたい。」世尊は「善男子よ、今や時に適当せりと知らば施すべし。」
無尽意は自分の首に着けていた貴重な真珠の首飾りを外し、観自在に渡そうとした。「聖人よ、我よりこの法の供養を受けよ。」観自在は受け取らなかった。
次に無尽意は「善男子よ、汝はこれを、我を憐れむが故に受くべし」
観自在は慈悲の故に真珠首飾りを受け取り、直ぐに2つに分けて釈迦牟尼世尊多宝如来に渡した。
「やってやる。」では神様は受け取られず、「やらせていただきます。私のような者がやらせていただき、有り難い。」でないと神様は受け取られない。「我を憐れむが故に受くべし」というのと全く同じ話である。自尊心は悪魔心でありこれが行為に混ざると神様は嫌われる。自尊心は奥底に「自分が一番偉い。自分が一番大事」があり、自分の上にあり、自分に強制し命令すると感じる神様さえ否定してしまうためである。人間の絶対平等と仁慈・隣人愛・神への畏敬、を神様は取られる。自尊心とは真逆の心である。