伝言ゲーム 宗教の変質

教室などで、この遊びをさせられた人は多い。伝言が如何に不正確かを体験させるためである。最初の文句が、最後にはすっかり変わってしまう。仏教やキリスト教の変質は、伝言ゲームと考えると理解しやすい。
最初は、神様・仏様の生の言葉と指導が、当時の人間にされて、それで仏教・キリスト教が発生した。直接の指導と生の言葉を受けた人々は、(因縁を直接神様から切ってもらったお陰で)大弟子(仏教でいう500羅漢)になり、正確な神様・仏様の言葉・指導・事績を残そうと努力し、後世に伝えようとした。何千年にも渡る”伝言ゲーム”が進むうち、社会も変わり、生活様式も変わり、肝心の教え自身もすっかり変質して、神様から無縁のものになってしまう。そこで法力はなくなってしまう。すると霊界が乱れてきて、死者の霊が現世の人間に憑くことが起こり出す。何人ももはや救われることができくなると、神様が降りてきて、その時の社会に受け入れられる形での、新たな宗教を作る。お釈迦様は当時のヒンズー教の改革者として現れた。イエス・キリストユダヤ教の改革者として現れた。
現代日本で、同じことが起きたというのは驚異である。大神様(北村サヨ)は1900年1月1日に生まれ、太平洋戦争中の1942年7月22日の自宅の火事(放火)をきっかけに犯人探しのお告げを得るため神参りを始めた所、次々と目をむくような奇跡や、霊体験を経験。神参りの目的は楽しさに変化した。1944年5月4日から肚に入った神様が直接喋り出し、指示を出しはじめた。(それまでは感応であった。)当時は特高警察や軍が厳しく思想統制を引いていた戦争中の時代である。この5月4日に田布施町出身の藤井退役陸軍中将がサヨさんの世話で空襲を避けて田布施町に住み始めた。軍に対する有力な庇護者を得たわけで、そのタイミングで神様はサヨさんの口を通して人々に喋り初めた。その日には、婦人会長松根夫人が、自宅でとれた蜂蜜を献上しにきた。(お金の受取を断った松根夫人(真鍋)は、その御蔭で後年大変な幸運を得ることとなった。)この6日後に「名妙法連結経」のお祈りを神様から授けられるが、これは日蓮宗のお祈りに似ている。これも社会に受け入れられやすいように神様が、こうされた、と思うしかない。1942年8月12日から毎深夜(丑の刻)水をかぶってから八幡神社に参拝。「3年7ヶ月夜水をかぶり、昼水をかぶり、日に10度(回)の水を184日かぶり、夜の夜中に一人とぼとぼと神参り、、」1944年末から48日間、日に睡眠1時間のみ、おかゆ一杯で、朝から晩まで神様の指示のままにあちこち歩きまわり、人々の悪口・悪事の暴き立てをしまくった。これは人間のしたこと、秘密の悪事もすべて神様は知っているぞ、と人々に教えるため本人の面前で(肚の神の命令で)直接あばかせられた。(学校の教頭が軍需物質を横領して闇に流し儲けている、先生が図書を盗んで売っている、部落の役員が昔海外の賭博場で大損させた相手を殺した事、等々)。神様は知っている、目を覚ませという神の愛であった。しかし人間サヨ様には、それまでの、義理堅く、他人の世話をよくやり、正義に満ちた世間での生活・付き合いと真っ向異なるもので、その苦痛は想像を絶する。正気はあり、言いたくないのに神様が言わないと許さない、自分の意思でなく勝手に口がしゃべる。警察と軍に捕まらないよう、時には半分気違いの振りまでしたようだ。(包丁で自殺しようとまで追い詰められた程の苦しさであった。神様から逃げられるものなら、わしが真っ先に逃げちょるよ、と後年言われたこともある。後年弟子の若い女性(成川すみえ)がその苦しさを証言するため、一週間同じ体験をさせられたことがある。)
おサヨ早く行せよ、(一年遅れてもダメ。また早すぎても人々は受け入れない)と肚の神様は次々と修業メニューを変えながら、サヨさんを鍛えていき、神の器となるまで純化すると天人の香りが立ちだし、神様から国救いをしてくれと依頼されるようになった。1945年7月22日から人々を集めて説き出した。(説法開始)。8月12日に重大ニュースがあると予告(ポツダム宣言の受諾=日本敗戦)しその前夜半12日0時の鐘が鳴ると宇宙絶対神が降臨し、霊界すべて、人類の知識すべて、時間を超越して何でも見える神眼が付いた。天変地変の鍵も渡され、人の生死も自由にできる権限も与えられた。これ以後サヨさんでなく大神様(天照皇大神宮)になった。天皇批判を各所で度々1年近く言っていたため、14日には特高警察に呼び出されるも、翌日は終戦。その翌日には学校で公開説法。その翌日17日に岸信介氏を訪ね、神経痛をお祈りで治し、いろいろと説教。岸夫人にも説教。戦犯で逮捕される時にも岸邸を訪ね、死刑にはならない。3年の行(辛抱)。神の世の首相にして使ってやる。と励ました。(東大法科首席卒業の大秀才岸氏は、この時の大神様の日本再建の神の計画などすべてを暗記しており、12年後には首相になり、10数年後それが、そのまま実現していて、大神様の説法が昔と全く変わっていないことに気づいている。岸氏の戦犯裁判・不起訴処分で米軍側弁護士だったリチャード・ハリス氏は10数年後には天照皇大神宮教に入教しているのは不思議である。彼と再婚したのが神の国洋裁学校の指導者福本静枝さんである。岸氏が安保騒動の時、ある易者が剣難の相が出ていると言ったのを、防長新聞社長が聞きつけて大神様に注進。大神様は「政治家は国のために命をかけてやるのが、身のため国のためじゃ。岸さんの命は助けてやる」と立ち上がり目をつむり合正して祈られた。岸氏は安保騒動の収拾のために辞任、後継首相選びのための自民党総裁選で大野伴睦を支持せずに池田を支持し、池田新総裁の祝賀の席(首相官邸内)で暗殺者に襲われ、数カ所も大腿を刺されたが、いずれも血管・神経・筋の急所を外れ、大事には至らなかった。防長新聞社長布浦氏は大神様から異例とも言える厚遇を受けており、アポなしでいつでも好きなだけ面会できた。大神様の亡くなられる直前の1967年12月24日にも2時間に渡り会談。日本・世界の情勢・情報を報告している。(この日で大神様の絶食の御行は50日になっていた。この会談の疲労のため夜の説法はテープになった)彼は政財界や各界の有力者や有名人を多数大神様の所に連れてきた。彼らに布教や指導をすることで、日本や世界を良くしようとされたし、多数の同志の布教と生活がやりやすくなるようにも配慮されていたようだ。)
戦時中と敗戦後の極度の混迷、それまでの社会の価値基準が全部否定され、お金の価値はなくなり、ほとんどの都市が焼け野原にまで破壊しつくされた日本、多くの家族が戦死し生活基盤が完璧に破壊しつくされ、社会秩序が崩壊し人心のむき出しの荒廃(生き地獄)を体験し、何とか日本を立て直したいと熱望していた多くの人々(愛国者)がいた。真の宗教、神様を探す人々もいた。そのタイミングで救世主・大神様は出現された。彼らの中から、熱心な同志(弟子)になり、全てを捧げて大神様について行った人々が多数現れた。彼らを連れて、国救い、地上神の国建設、世界平和の達成という大聖業を始められた。「神のみ国が今地上に開けいく時に、前世の因のある者は知らず識らずに神の電波に引き寄せられて役座(大神様)と共に国救い、やらにゃならない運命の巡りあわせ」と言われた。
神様のご計画。それしか言えないだろう。終戦直後、日本に進駐してきた連合軍は、戦前の軍国主義のなごりに警戒していた。戦前の天皇制の根幹に神道があり、中核が伊勢神宮であり、その本尊は天照皇大神である。従って「天照皇大神宮教」という名は非常な注意を引き、来る手紙などすべて検閲された。詳しく調べているうちに、世界平和を目的とする本物の宗教であり、キリスト再臨が起こっていることに気づいた。戦後の憲法は宗教の自由を保証したため、官憲の弾圧がなく自由に布教できた。日本に基盤ができると、ハワイに布教し、そこを足がかりに全米に布教した。そして世界に布教した。
(注)大神様が敗戦直後に、岸氏を訪ねたのは、肚の神様の指示によってであり、それまで一度も会ったことはなかった。岸氏は通産省設立、満州国副首相、軍需大臣などを歴任してきた「大物」であり戦犯で死刑になることを覚悟していた。大神様は元大和村村長坂本を案内役にしたり、退役陸軍中将藤井をお供にして面会した。「田舎の百姓女」の「お叱りの暴言」をちゃんと最後まで聞き、岸夫人に対する指導もちゃんと受けた。その真心により、神様は「首相にしてやる。」と言い、事実12年後に、誰しも有り得ないと当時は思っていた首相になった。このように大神様が言われると、世の中がその通りになる。髪の薄い女の子に、「先では赤髪がはやり、染めるようになる。目の周りを狸のように黒く塗り、爪を伸ばして銀色にぬり、獣のような女がでてくる」と終戦直後に言われたこともある(ガングロなど)。汽車の煙が目に滲みた人には「20年もしたら煙の出る汽車は見ようとしても見れなくなるよ」と(電化を)予言された。
(注)神様の一番純粋な記録は、説法のテープや文字化された説法である。大神様在世中の神教出版物も、神様の前を通っていることから特別と考えられる。直接のご指導を受けた人々の証言記録や行動も、良い教えであろう。これらがそのまま現在も存在していることが天照皇大神宮教の大きな特徴である。
(注)天皇批判の一例。当時「天皇は神」という教育・洗脳が日本で浸透していた。これに異を唱えれば厳罰間違いなしの社会であった。「天皇は神ではない。神様ならその側近に敵国スパイが大勢いるのに気づくはず。おサヨにも見えているのに」というようなものもあった。最近、当時の日本軍上層にソ連の協力者が意外と多かった(ゾルゲには何でも見せろと武藤陸軍省軍務局長が指示したこともあった)ことが明らかになってきた。天皇が祭り上げられ人民から遊離している、これは古代に神が天下り天皇となって人民を治めてきた姿と違っているというのが批判の主要点。終戦直後の「天皇人間宣言」を先取りしていた。国の制度としての天皇制を否定していたわけではない。共産党系の学者(武谷三男など)との討論会(昭和24年世界評論社主催)で、(天皇追放には組みしないで)「やめさせんでもいいよ。置いちょきゃいいよ。」というような発言をしているし終戦直後には天皇島流しにされないよう祈ったことすらあった。この座談会はアメリカの日系移民新聞の一つニューヨーク新報にも「大神様を囲む座談会」として転載されたようだ。  
(注)キリスト教の優れた点は、聖書の最後(ヨハネ黙示録22.18、19)に「一語、一句の改竄も許さない」という警告が存在することである。このため聖書自体は原文を保存していると考えられる。ただ翻訳者が理解できない部分(霊的相応)の翻訳による変質は大きい。(例えばスウェーデンボルグ旧約聖書と普通の旧約聖書を較べると同じものとは思われないだろう。380年頃大きな改変があったらしいという話もあるそうだ。)仏教では般若経中に、この教えがどんどん改竄され改悪されるという仏の教え(牛乳に水を混ぜて売る牛乳売の話)が入っていて、ご丁寧にも、同じ(現在の)経典中に改竄跡らしき点が多くみつけられる。
(注)福本静枝(ハリス福本)さんは紀元12年(昭和32年)に日本にきて大神様の下で神の国洋裁学校を再開した。それまではハワイで有名な洋裁学校「スタイルセンター」の創業者であり校長であった。彼女のハワイ時代の教え子の松田はるえさんは三越主任デザイナーになり美智子妃のウェディングドレスをデザイン製作したことで知られている。