真心とは

天照皇大神宮教では真心という単語が良くでてくる。肚と祈りと真心と、3つ揃えて無我で(神の元に)来い。というように根本的に重要な語彙である。
しかしいまいち、真心といものがはっきりしないと思っている人もいると思う。(例えば私)世間の「真心づくし」とは「誠心誠意のサービス」。「真心を見せろ」は「タダにしろ。」という意味で使われる。天照皇大神宮教の「真心」は当然、世間の「真心」とは意味合いが異る。
お金ではない。真心が大切で、神様が見るのは真心だけと良く言われる。お金を出すことは真心ではないのかと思うと、そうでない事例もある。神戸大震災の時、家が全壊した同志がいた。その人の元に、オートバイで若神様から「真心」が届けられたそうで、有り難く使わせて頂いたという話もある。オートバイで直ぐに届けるという真心、お悔やみと神様はご存知ですという励ましの真心とそれの実体としてはお見舞い金だろうと想像される。
道場建設の時、大銀行などから、多くの物品等場合によってはお金が寄せられたが、大神様は、これは人の真心でないとして、送り返されたそうである。(送り返すのも手間と経費がかかり大変だったがちゃんとしたそうだ。)自分でバイトして醵金(寄付)してくるようなものは、真心があるとして受け取られた。同志が地区で共同事業をしてお金を作り醵金した例も多い。家の解体請負、植林事業、模試の採点、プラスチック部品の組み立て、デパートの衣類の裁縫の下請け、農作物の栽培・販売等々多岐に渡る。各自が節約したお金を醵金した例も多い。電車に乗らず、歩いて通勤し、電車賃を積み立てて醵金に足すというように、真心は確かに大きそうだが、額は大したことはなさそうなお金を、大神様は喜ばれたようにも見える。サラリーマンで、休日にバイトして醵金に足したり、子供が貯金箱を醵金するなども喜ばれたようだ。また行商人(貧乏人)が大神様へのお礼の願掛けして商売し、3年間の売上のほとんど全部(大金でありほぼ全財産)を醵金した例もあるが、これも真心があるとされた。金額が問題でなく、そこに込められた真心(打算がない、純粋な神様に感謝する心,み国の役に立ちたい願い)、お金が作られた経緯(正しい筋書き)が大切であるようだ。ハワイヒロ道場建設時、奉仕で作業していた大工が、屋根の作業をしようとした時、「わしは嫌じゃの」という大神様の霊の声を聞いた。反省してみると、使おうとしていた金槌が、以前他の大工(当時は廃業)から借りて返し忘れて居たものであることに気づいた。直ぐに返しにいったそうだ。このように一切の不純物が入らないようにして道場は作られた。また関係者はすべて自己を捨てて真心の塊となり道場を作った。その結果、例えば大道場の設計は丹下健三大谷幸雄・沖種雄などが心血を注いだし、清水建設も全力を傾注した。同志はさらに徹底した「真心」を注いだのは言うまでもない。床・壁・柱のどの一枚にも真心がこもっていないものはない。建設材料の収集、運搬、保管、加工、庭石、道路の基礎工事、後片付けなど全てにわたる。すべてに完璧さが追求された。「自分が生まれてきた意味はこの作業をすることだった」という自覚に到達した人達が作業をすれば完璧にならざるを得ない。この結果例えば大道場の基礎工事でいうならば、原発の基礎工事に匹敵する程となり、どんな地震にも耐えられるそうである。それが極めて少ない予算でできあがっているのも奇跡であり、業者も含め、関係者が皆感謝して、超ハードなのに、仲良く幸福感を持って、作っているのも奇跡である。
真心の一番良い解説は、天声178号みくにのこども「大神様のごせっぽう」紀元16年7月11日ハワイ州支部道場 の記事であると思う。「真心」には誠意、相手を思いやるという親切・慈悲心・愛情だけでなく、正義と勇気という側面もあることが判る。
いつでも真心がいるんよ。ひとつの問題についても、真心があったら良心的に解決がつくのよ。真心を忘れたらなんにもならん。真心ちゅううて金だけと思う。うそよ。
真心があったら、ひとつのもの解決つけるのでも、ありゃ知り人とか、ありゃ心安いけえ、ありゃ親戚じゃけい、あれを助けてやらにゃ、それがまちごうちょるんで。
真心があったら、正しい方に味方しなさい。ありゃ友達じゃけいいうて、友らでも、悪いところはさとして聞かすのがほんとうの友達の真心よ。真心、真心いうてから、ようても悪うても真心で助けてやらにゃちゅうのは、大間違いよ。本当の正しい解決して、正しい者の味方になっていかにゃ。
ある男が喧嘩して、喧嘩の相手の味方をはるばる他所から呼んで来て、仲裁にはいってもろうた。それが、友達でない自分の味方になって、今に自分と仲良しでおるちゅう。それが本当の真心よ。悪うても何でもかまわん、人が物を持って来てすりゃ、はあ、その者にひっついちゃ、あっちでもこっちでも、またくらゴウヤクいうて、どっちへでもひっつくのが、またぐらゴウヤク。正しい者の味方になる人にならにゃ、それでなかったら、これから先はもう一歩も行かれんようになる。
ほいじゃがのう、なんぼ真心をもっちょたけえいうても、自分の肚がなかったら、その真心が使われんのよ。ええ、こらえちょけ、ええ、黙っちょろう、ええ、言わにゃ損はなあ、いや、行きさえせにゃええ、ちゅう。真心が無いんで。肚がないんで、本当は。真心があったって、使うことを知らんちゅうのはそこよ。正しい祈りと肚と真心と3つ揃えちょったら、何ものにも恐れない。本当に神の国の神の使いができるようになる。
ーーー何と素晴らしい感動するお話であろうーーー
ところで心と真心の違いはなんだろうか?心には良い心(神の心)と悪い心(悪魔の心)が混在している。法華経にいう「神と悪魔の共なる世界」である。これを自己反省を繰り返し深め、心を掃除しつづけることで、利己心や怠惰、臆病などの悪い心を封印できるようになると、良い心が優勢になる。これは真人間の心に近い。これを真心というのだろう。
真心とは、自分で育て磨いていくもので、初めから完成してあるわけではない。各人各様の色分けされた真心があるわけで、個性がある。慈悲心に優る真心とか、正義勇猛心に優る真心とか各人各様の真心がある筈。この向上の道が、肚と祈りと真心という語の並びの中に示されている。
肚を作る。ーー>祈りができる。ーー>心の掃除ができるーー>真心が育つ。ーー>肚が強固になる。ーー>祈りがより正しくできる。ーー>真心がさらに大きく拡がる。ーー>。。。
別の表現では、神教の実行、日常生活への折り込み、心行をするとなる。
これが進むと:肚=「命をかけての神教実行の決意」:祈り=「世界平和、悪霊済度の法力ある祈り」:真心=「み国のお役にたちますようにと念願する真心」までいくそうだ。このような人物の例を何人も思い浮かべることができるが、いずれも例外なく立派なすごい人達である。立派な人を思い浮かべると、例外なくこうであることがわかる。そこまで成った動機は、大神様に対する尽きせぬ深い深い憧憬と愛情である。真の慈母として、人生のすべてを掛けて愛し、尽くしたいという人達である。神を愛するというのが一番高い天使(天的天使)の特質である、とスウェーデンボルグが言っている。大神様は「大勢が慕って参ってくるのは、何故だかわかるか?わし(大神様)の真心よ」と言われたそうである。これで真心が正しい愛、人類愛、隣人愛も含むことがわかる。人間が動くのは良くても悪くても、理屈ではなく、愛情と感情であるためである。そこで盲目の愛情を清めることが大切で、反省懺悔、お祈りで、六魂清浄にしていくことが基本の「き」になる。難しいのは自我と無我を間違えないこと。
(注)愛が如何に深いかを示す例。大神様の晩年、自分の命と換えて大神様の寿命を長くして欲しいと、祈った人々がいた。大神様が亡くなった時、茫然自失し、その後も呆然としていた人が大勢いた。この様は釈尊の死を弟子・信者が嘆き悲しんだ故事とそっくりである。ある人はハワイから直ぐに駆けつけ、日本に着き初めて冬の寒さに気づく程だった。死後、ある人は夢で大神様に出会い、生きておられたと膝に取りすがって大泣きした程喜んだ。その時大神様は「わしが隠れると、皆の行が進む。」という趣旨の話をされたが、これは釈尊が「自分が生きていると、いつでも会えると、弟子たちの心が緩む」と言われたのとそっくりである。彼は大道場建設時、自分の会社を閉め全社員を建設奉仕にだし、彼らの生活費を自分の私財でまかなった。そのため道場完成時にはほぼ無一文の丸裸にまでなった高名な方である。
(注)「真心持ち」という表現が良くでてくる。これは良心の根を枯らしていない人という意味で、神教が判る、実行できる潜在能力があるという人のようだ。スウェーデンボルグのいう「残り物」を持っている人、仏教でいう如来蔵があり、良い因縁を持つ人のようだ。ただ我々凡人には、誰が「真心持ち」で、誰が「真心持ち」でないかはわからない。