ご説法抄録
わしは宗教の押し売りするのと違う。お陰いただきの信仰じゃない。人間として知らにゃならん時が来たから、本当の人間の道を教えてやるのよ。今までの信仰は神様をこきおろして利己に使おうとしていたろうが。動かぬ神の肚に動く人の心を合わせる。神行とは神に行くと書け。魂磨いて神に行く。合正とは正しく合う。神と人との肚が正しく合うようになったら、神人にあり。人神にあり。神と人とが共にいて、神人合一これが真のしんこうよ。曲がってくねって神から遠ざかり、地獄まで堕ちておる者が、(死んで金が)いらんようになったら乞食の坊主や神主に金や品物をやって、戒名を書いてもらったぐらいで涼しい顔をして天国へ行けるのなら、天父はむりにこんな独りしゃべり(大神様のこと)を創るに及ばない。
神の国には地位も名誉も金も財産も通用しない。神のとるものは人の誠心(真心)だけなのよ。誠心さえありゃ、肚と祈りを足してやり、老若男女誰でもつれて行くのが役座(大神様のこと)の腕前よ。国境もなければ人種の差別もない。早く心の目をさましなさい。
役座の吐き出す神の清水で穢れに穢れたその魂を洗いさらして、上がって行きさえすれば誰でも行かれる天国よ。わたしでやれるだろうか、行かれるだろうかと案じるには及ばない。わしがしゃべり始めた頃には、あなたの言うてのことは理屈に合うておるが、とても人間じゃやれないというていた。それほど皆人間の道から離れておった。人間の道を離れて人間の行はない。おやじにはおやじの務めがあり、女房には女房の道があり、子供には子供の道がある。日常生活に折り込んで生きた宗教でなかったら絶対に救われはせぬ。わしは単刀直入、真人間になれという。経文や本を読んで、わからん奴がわからんことをいうのを聞いてわかるわけがない。
原爆や水爆が出て皆不安におびえておるが、あれは殺虫剤よ。田に虫が殖えたからホリドールを播くのと同じこと。最後の審判が来たのよ。悪魔祓いがあるというても、よそごとに思うておるじゃろうが、やるぞ。心の悪魔を掃除しておかぬと皆祓われるぞ。新聞の三面記事を何と思うて読んでおるか。切って切られて取って取られて女房が主人を殺すやら、主人が女房を殺すやら、子が親を殺すやら、親が子を殺すやら(世の終末の様相がでている)、昔は殺人や自殺はめったになかったが、今頃はない日があったら寂しいくらいあるじゃろう。悪魔の自滅する姿に愛想がついたなら、今度こそ神行、神に行く道まっしぐら、魂磨いて上がっておいで。神を求める前に神から求められる者になれ。神の好く人になれ。神の好く人誰も好く。開け行く国、没する国、油断しておると崩れ行く国の下敷になってしまうよ。
東京の座談会でも、皆を何とかして救うてもらいたいというが、わしがいくら呼びかけても耳を傾けない。(自分の悪い所を)直そう(そして神に救われる)としないで、神の国を下界に創ろうとしておる。このくらいの人数でも、皆さん、神の国を創ろうではありませんか、というて意見を言わしたら皆勝手なことばかりいうて、あすの朝までかかってもまとまりはすまい。川に落ちた者が冷たかろうというて、とびこんで濡れたまま抱いてやっても温かくはならないじゃろうが。(自分を直して上がってくる者しか、神は救えない。天は自ら助く者を助く。)
世界平和は悪霊済度の祈りによってできる。悪霊の後びかえで人と人とは喧嘩をし国と国とは戦争をし、病気や悩みの種となる。実相界(霊界)のかげろうが現象界(現実)。実相界はフィルムで現象界は影法師。悪霊済度は法力のある祈りでなければできぬ。法力は無我で神に使われる者に神が与えるもの。宗教は利他、己を捨てたら己そのものが救われる。
あんたら田布施の道場に来りや、悪口言われるじゃろうと思うてよう来ないじゃろうが、(神に)悪口言われるのは仕合せよ。きびしい鞭の後ろにはやさしい愛の手がのべられている。わしの姑さんは食わせもせん、寝せもせん、気持よう食べさせてくれたのは南瓜(カボチャ)のすえた時だけ。百姓の仕事がひまになったら、日に10回ぐらい帰れ(離婚して実家に戻れの意)というたが、あれが行じゃった。もしあの時わしが里へ往んでおったら、今こうして皆に説く資格はない。アメリカのバーネット博士が留学生の吉田禎悟に、わしの所の宗教を調べるようにいったから、吉田は本部道場にもやって来て「大変失礼だけれど、大神様は学生時代の下宿のおばさんのように気安い。神様が人間に化身されるとしたら、あなたのような方でしょう」と言うた。神が人間に化身したのと、人間が神に化けたのと間違えなさんな。真人間の道を踏み、生神の素性を持ったものでなければ神様は使やせぬ。
(注)紀元12年(昭和32年)3月12日光市島田領家でのご説法の抄録であり天声41号に掲載されている。大神様が目を通された抄録と思われる。神教の真髄が良くまとめられている。光支部史P14−p20に、さらに詳しい抄録と思われるのが掲載されている。
お陰いただきの信仰とは、「仏教で立派な僧侶に布施をすると徳のおすそわけをもらえる」ということから派生した信仰。災難よけ(家内安全)、病気なおし、福運招来(家業繁盛)などを祈る信仰のこと。自分と家族のことばかり祈る利益信仰であり、自己をつのらせた信仰である。