最大の敵

自分の完成にとっての最大の敵が”自分”(自我、利己)である、という逆説的な説は仏教、キリスト教天照皇大神宮教で共通している。仏教での最高到達者の称号が”降伏敵者”(アラハン)である。ここでの敵とは自己の心にはびこる悪(地獄)の主、自我をさす。
天照皇大神宮教のある女性は面白い霊夢をみている。(天声239号:清石清子)「鬼が私の靴を持っており、神様が鬼に靴を私に返すように言う。鬼は神様の手を食べさしてくれたら返すと言い、神様が手を出し鬼が食べてしまう。もう片手を出すように鬼は要求。神様はもう片手を差し出す。自分は申し訳なさに、死んでも良いと鬼にぶつかっていくと、鬼は死んでしまった。」鬼とは自分の自我である。靴とは自分の現実での基盤(財産、収入、肉体、家など)を意味する。鬼が靴を持つとは、自分が神を向かないで、金などの業の種に捕らわれていることを意味する。神様が靴を返せ、というのは、靴は神行のための道具と教えられたことに相当。「衣食住に心をとられるな。」鬼が神様の手を要求するのは、お陰いただきの性根や自己の功績を誇る気持ち(やってあげたの根性)がすたらないことを意味する。この性根を根絶するのは非常に困難である。そのことが、もう片手を要求することで表されている。申し訳なく思ったことは、人間の真心は「自分でなく神様や、仁慈(善人の隣人)を愛し、神様や、仁慈に奉仕することが、最高の喜びである」ということを表している。この真心が自分の自我(鬼)を殺した、という。この夢を見た人は、即身成仏の最終段階までも到達していたのだろう。(天声85,158,163号に、この段階に到るまでの清石さんの「行」体験が書かれている。)
この自我を克服できた状態が無我である。己の心が「神中心」になった状態。すると、なすことすべてが神の意にかなうようになる。これを「神教が個性になった」という。
「心の掃除をしたうえで、肚と祈りと真心を3つ揃えて無我で(神のもとに)来い」これに天照皇大神宮教の教えは要約されている。神様の側から説いたのが「無我で来い」。人間の側から説いたのが「利己・我を捨てなきゃ神の国には行かれない」
肚がないと「名妙法連結経」と唱えられない。「名妙法連結経」を祈らないと心の掃除ができない。真心がないと神の下に来られない。心の掃除とは自分の我を取ることである。
つまり自己心中の悪(利己・自我)を見出し、日々掃除することだ。自我、利己が、怒ること、憎むこと、可愛いと思うこと、妬ましく思うことに現れる。6魂清浄とは利己・自我をなくすのと同じ意味である。利己がない6魂とは、惜しい(落ちていく同志は惜しい)欲しい(あの人を救いたい。神の国に欲しい)、憎い(神の敵は憎い、悪が憎い)かわいい(神の子はかわいい、善はかわいい)好いた(神を愛する、善人を愛する)好かれた(神に愛される、善人に愛される)。要するに大神様の6魂である。これが清浄な6魂。(6魂清浄の要点として中山公威さんがこう説いた。川村馨さんは6魂清浄とは自我を捨てることであると、大神様に言われたと言っている。)
やってやる、やっている、自分は優れている、劣っている、自分は正しい、これらすべての意識と感情の根を反省する必要がある。「やります、やらせていただきます」でないといけないと大神様は説いた。自分だけいい思いをし、他人を利用しようという潜在意識にも注意がいる。また、誉められて喜ぶ心にも注意しないといけない。この自我がくすぐられるほどの快感はないと、スウェーデンボルグは注意している。家の掃除が日々必要なように、死ぬまで油断してはいけないと大神様はいましめた。
「心の掃除は厳しい行で、人間はこれに気づいていない。」とも大神様は言われた。自分の理性によって自分の愛を直す。スウェーデンボルグが常に論じたポイントで、これは天的人間以外は不可能。清められた理性により、清められた仮の愛を作り、それらが結合して新しい心を作る。自己の悪い愛は包んで働かないように務める。霊的人間の目標である。このきっかけには心の霊的手術としての「試練」が必要になる。清められた理性が示すことを実行することで清められた仮の愛と結合する。つまり神の教えを実践することで結合する。参照:2009−06−11 ノアの方舟 ーー人間の改良過程と仏教
自分の本性は温存したまま、一生懸命に奉仕・伝道などに熱中する。これは他宗でも同じであり、これに留まっては駄目で、この活動が心の行になり、体験にまで深化させることが重要。若神様が常に指導され続けたポイントだ。例えて言うなら、玄奘や慧海の取経の旅のように、日々の出来事を「神国のお役に立ちますようにの一念」で真心を尽くすことにより、「宗教体験」「神に行く行の道程」になるようにしろというご指導である。天照皇大神宮教はこの道を開いているというご指導である。実に若神様の日々の足跡はそうであったことが、天声を深く読むとわかる。新道場建設用地の買収交渉(天声92号P59)(3万坪の山「神山、鳥の巣山、岡の下山」、田畑、墓地など。地権者162名、地権を主張する別人が後に現れ裁判も起こった)、新道場建設の設計、施工、管理の過程での指揮、その後の一連の教団施設の拡充、教団運営、海外同志の指導、などなど枚挙にいとまがない。
初期の頃は大神様の直接指導により、癖を直したり、反省懺悔が(容易く)なされた。ある人は「腹立ちをやめよ。やめぬと顔が歪むぞ」と指導された。家に帰り一年程は頑張って腹を立てないようにしたが、つい気が緩み腹を立てると、途端に顔が痛くなり歪んだ。ここで大神様にお詫びのお祈りをするとすぐに直り、以後ずっと腹を立てないように努力し、腹が立たなくなった。別の人では大神様の目の前で嘘をついた。するとその日からジフテリアの症状が出て口内が白く痛くなり水さえ飲めなくなった。懺悔して直り、以後嘘を言わなくなった。こういう事例が多い。また自分に思い当たる悪いことをした思い出の身体箇所が痛み出し、懺悔すると治る。しばらくして又痛む。また懺悔して治る。又痛くなる。そこで心底から懺悔して完治する。こういう事例も多い。
姑や義父の老人介護を何年も続けた嫁が到達した心境が興味深い。「お爺さんやお婆さんに孝行できる機会が与えられて嬉しい。お爺さん達は苦しい辛い思いをしながら、自分にこの行を与えてくれている。何と申し訳ないことだろう。」と感謝の祈りを捧げつつ介護にはげむ。当然老人達は感謝の涙の中に昇天する。この日々の行で、嫁の人格は神様に到達している。昔は荒修行をする行者がいた。この嫁のように日常生活を行ととらえて、魂磨きする人が「現代の行者」であり、知らずについた所が、地上天国であった。