慈雲尊者の母

慈雲尊者は江戸中期の聖人で、空海が伝えたサンスクリットの教典を読み、ほとんど霊感でサンスクリットに通暁し、漢訳教典をサンスクリットに逆翻訳するまでになった。「釈迦に帰れ」すなわち、仏教の基本の出家の戒律に復帰し、厳守する実行をし、義浄の書に学び、クラマジーワに汚染された仏教を革新した。出家、在家の弟子も多く、明治初期までその流れは絶えず、日本人のかっての高かった精神の基盤を築いた人物だ。仏教本来の姿に戻ることを目指し、袈裟の設計をし、信者の家庭の女性達(町民、農家、武家、公家、大名など)が作成奉納したのは1000枚にのぼったそうだ。晩年に、真言密教神道を融合して、雲伝神道(葛城神道)を開いた。
この聖人の母は、乞食がいると、家に招き、茶を出し、髪を切って整え、シラミをとってやるほど親切な人であった。貧しい人たちに良く恵んでいた。「この母にしてこの子あり」
天照皇大神宮教の信者(同志)にはレベルの高い人が多い。この慈雲の母とそっくりな人がいたようだ。和歌山県に最初の支部を作った人の母親である。この母は50年、毎日朝晩、神仏にお供えし、(真言宗のお祈りである)何十もの仏の称号を唱えていた。乞食が通ると、お茶を出し髪をきってやり、時には着ているものまでぬいで与えた。正月には貧しい人たちにお米を与え、軒下においたり、届けたりした。娘が同志になり共に天照皇大神宮教のお祈りをするようになった。翌年大神様が和歌山県巡教に来た時、この家に泊まることになった。来る4日前に、この母(88)は夢を見た。「神様を乗せた立派な船が、金銀を載せ、浦の浜に来たら、波に流され自宅の入り口についた。すると東向きに茅葺きの社ができて天より十二単衣で白足袋をはいた美しいお姫様が降りてきた。」
大神様は到着すると「ばあさん、今戻ったぞ」といい、ひざまずいていたお婆さんを膝上にだきかかえられた。「50年間の神様供養の真心は全部受け取っている。これほどの真心持ちはいない。もう即身成仏だ」とほめた。4年後お婆さんがなくなると、水仙と菊を合わせたような強い芳香がたちこめ、土葬してもなお匂いつづけた。この香りを嗅ぎ入教した人もでた。(天声212号 南村)
(注)同じようなお婆さんは広島県の奥地にもいた。
(注)大神様が東京で最初に説法された場所は慈雲堂という病院であった。またこの和歌山支部から南西の山奥に真心持ちが集まっていると言われ、10年後ぐらいして伝道が伝わり、金屋町周辺に沢山の同志が生まれた。この地域は明恵上人ゆかりの地である。
(注)雲伝神道の研究をした一人が西晋一郎である。青木要さんの先生である。