天の預金通帳

人間には、ひとりずつ天に預金口座が開設されているようだ。生まれた時の口座は、前世の自分の口座を引き継ぐようになっている。先祖の残額の一部ももらうようだ。日々の生活で、徳を積むと口座に入金される。幸運にあったり、人から尽くしてもらうと出金するようだ。ただその時、感謝を忘れなければ、出金にはならない。「常に人や物への感謝を忘れない。自分が生かしてもらっているという感謝を忘れないように」という教えは、「自分の口座をうっかり減らさないように気をつけなさい」という神様の忠告なのだろう。悪いことをすると、出金になる。
残高がプラスでないと神様は幸運を与えられない。そのため大神様に会いに来た人で、なにかを手伝うと(例えば草取りとか、掃除、着物を縫う、など)それが、神様への奉仕という徳になり預金がつまれる。そこで因縁の一つが切ってもらえ、霊体験(霊動、無我の舞、霊夢など)をしたり、宿病がたちまち治る。こういう体験をした人が非常に多くでた。これは大神様の死後、後継者の時代でも続き、天照皇大神宮教の施設、山林などの整備や建設やお祈りをすることで、同じ体験をした人々が多数でている。因縁を切る霊体験というのは、普通の世間では極めて稀であるが、この教団ではかなり普遍的であり、その結果、宗教の本質を知るに至る人が多い。(霊動が手の表なら、手の裏は悟ったということで、学ばず悟ることができる。ただ「悟る」というのは終点でなく、門が開いたという意味で、努力しないと後退もするし、努力すればさらに進める)このため教団では学習よりも体験の重視が良く言われるようだ。
死んだ時、口座に金が残っていれば、天国にいける。マイナス残額なら地獄に行くというように、わりかし単純なロジックがあるようだ。
大神様は神の化身であったから、その時の色々な出来事を研究すると、神の国の法則、ロジックが判明する。
Aさんは初期の信者で、大神様に尽くしたことがあった。通帳にはかなりたまったようだ。その後教えから離れた。残額が大きいので、大神様は、何人もの人を派遣して、彼の仕事を手伝わせ、戻れる機会を与えた。派遣された人たちの献身は世間の常識を超えたものだった。Aさんには幸運が起きたことになる。しかしAさんに感謝を感じるだけの心の柔らかさがなかったようだ。出金が継続して、口座残高が尽きた時、大神様は派遣していた人たちに引き揚げるように指示。まもなくAさんは不運が重なり破産してしまった。一方、派遣された人たちは尽くした程度に応じて預金が積み増された。
Bさんは初期の信者で、大神様に尽くしたことがあった。通帳にはかなりたまったようだ。Bさんの子供にCさんがいた。Cさんは教えから離れた。Cさんに親からもらった分の通帳残高が残っていた。そこで大神様は、同志の夫婦を派遣して、彼の仕事を手伝わせた。派遣された夫婦の献身は世間の常識を超えたものだった。Cさんに感謝を感じるだけの心の柔らかさがなかったようだ。感謝がないのは自分に当然という自我が強いためだ。出金が継続して、口座残高が尽きた時、大神様は派遣していた夫婦に引き揚げるように指示。まもなくCさんの妻は病気になり死亡。Cさんの工場に事故発生し結局、破産してしまった。派遣された夫婦は尽くした程度に応じて預金が積み増された。
Dさんは大きい借金を抱えた上、瀕死の重病で死にかけていた。同情した同志のEさんはお祈りを教え、ともに祈ってやった。奇跡的に回復し退院できた。Dさんは借金取りに追い回されていたが、非常な僥倖が起こり、大金が入り借金を完済した。EさんはDさんを連れて「大神様にお礼を言いに行こう」と誘っていたが、悩み事がすべて解決してしまったDさんは行こうとしなかった。まもなくDさんの病気が再発し重体になった。Eさんが大神様にDを救ってもらおうとした時、「Dは神から非常の恩義を受けながら、まるで感謝していない。彼はすぐに死ぬよ」と言われ、事実すぐにDさんは死亡した。Dさんは天の通帳に気づかなかったためである。このような事例は他にも起きている。これを「落ちていくのも神教えよ。世の中の業晒しになって消えていく世馬鹿がいなけりゃ神教はわからないし、広まらない」と説いた。残額が少なくなると、この人間は業に追われて生きるようになる。
(注)天の預金通帳につき大神様から直接指導を受けて解説した人もいる。通帳には、財産の記載と借金の記載がある。借金とは悪をなしたこと、人に迷惑をかけたことである。財産とは、他人に真心でした行為、神に真心を尽くした行為、であり先祖の分と自分の積んだ部分がある。この財産(徳)から「天の供給」が流れてきて生かされている。感謝がないとこれが減り、ゼロになるとその人に「最後の審判」がおこる。個人個別の通帳だけでなく、民族単位の総和、国単位の総和、人類全体の総和もあるようで、これがゼロに近づくと民族、国、人類の危機になる。その時、民族、国、人類の生存のために、心の目の開いた人は、大きな「財産」を急いで作らなければならない。一番大きな徳は、命をかけて「神の国建設」のため殉じることである。
同じ意味の記述は旧約聖書創世記18章にもある。神が人の悪を見られて滅ぼされようとした時の記述。
アブラハムはなお、主の前に立っていた。
23 アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
24 たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。
25 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。
26 主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。
27 アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。
28 もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。
29 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。
30 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。
31 アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。
32 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。