預言者と偽預言者

宗教を実行しようとする人にとり決定的に重要なのは、正しい教えに入るか、悪い教えに入ってしまうかである。教祖が釈迦の生まれ替わりとかキリスト再臨とかいう宗教は、99%怪しい。ただ天照皇大神宮教のように本物もある。本物と偽物の違いはどこにあるのだろうか。本物は、教祖が初めから最後まで人間として正しいし立派であり、行いに一切の傷がないという特徴がある。偽物はいろいろと初めから人間として問題があるという特徴がある。嘘つき・盗み・邪淫など悪いことをしていた人間に神様が降りてくるわけはない。大神様は「神様が人間にばけている(本物)のと、人間が神様にばけている(偽物:神様のふりをしている気違い)がいる」「我こそ宇宙の絶対なる神ちゅうて言うのが、あっちにもこっちにようけおるけえわからんと言うのがおる。それを見たかったら、その人の行いを見よ。人生行路、その人がとおってきた道と行いを見たら、なんぼ立派な衣装で飾ちょっても、立派に化粧しちょっても、通った道が間違ちょったら駄目よ」と説法した。本物は初めから神様であるから、間違ったことは初めからしていない。
大神様(北村サヨ)は生き神様になる前から人間としての正しいあるべき姿の模範であった。多くの証言がある。大神様の足跡は人生の始めから神教そのものであるとして、天声でも積極的に取り上げられた。(98号P45,109号P49など)サヨ様が大神様と呼ばれたのは、山口春子さんに「わしが何者かお前にはわかるはず」と問われ「大神様ですか」と答えたのが最初である。
(1)結婚先は嫁を使い捨ての労働力としか考えないような所であった。明治時代の日本の農村にはこのような家も珍しくなかったようだが、その中でも極端に酷いほうだった。3年で6人も嫁をかえていて6人目の嫁がサヨ様であった。皆が皆、彼女も耐え切れずすぐに実家に帰ってしまうだろうと思っていたが、それを耐え切った。連日3時間以下の睡眠で重労働をした。耐えた理由は、離婚すると、当時の通例として再婚させられることになるが、それが嫌だったためである。[食べさせもせん。寝せもせん。着せもせん。ひもじゅううてミカンの皮まで食べた。(大農家なので米など3トン以上もある)。それでも耐えたから今日があり、(自分が実行したから)皆に神の国の結婚をしたら離婚するな、辛くても我慢しろと説ける。」
(2)子供が生まれてから、一度もおもらしさせなかった。赤ん坊がおねしょをしそうになると直ちに目を覚まし便所に連れていき、一夜に12回も連れていったこともあるそうである。ついに赤ん坊に一度もおもらしさせなかった。これは神業である。
(3)自分が作る野菜を出荷した売上はすべて預金しておき、神社や寺、村の行事の時に寄付した。市場に勤めていた人の話では、スイカや松茸を度々出荷し、その売上を貯めていた。松茸は多いと一度に250KGもあり、柳井市など大きい市場に出すこともあり米の出荷程の金額にもなったようだ。市場では仲買人の権利も持っており、豊作で暴落した野菜があると、それをわざわざ通常価格ですべて買い上げ、その野菜は非農家に無料で配るなどすることに金を使った。彼は「サヨさんが生き神様になったという話を聞いた時、彼女は以前から神様のようだった」と驚かなかった。(畠中:天声258号など)
(4)他人の子供に全学費を出してやったのが4人、嫁入り支度をしてやったのが3人、墓を立ててやったのが数人いた。これらは布施行であった。嫁入り支度までしてやった人が、後に婚家先が破産しかけている時には500円(今の500万円)も援助したりした。この資産は義母が晩年おサヨさんに渡したものであった。嫁入り支度をしてあげて、後年同志になった一人が有名な「貞子さん」である。
(5)八百屋で買い物する時など、自宅用には傷みかけたり小さいものなどお店が早く売ってしまいたい物を選んで買ってあげた。贈答用は最高の物を選んだ。教祖になってからは更に徹底したようだ。
(6)無駄口はたたかず、皆が決めかねているときは、常にサヨさんの発言で決まった。公平なまともな意見であったから。子供時代からサヨの意見は必ず通った。
(7)働き者で力持ちであった。米俵(60KG)を軽々かついだ。暇があると草履を編み、一つつくるごとに3銭貯金箱に入れ、何かの時にはその分を足して寄付した。国防献金も村一番であった。
(8)革新的であり西洋風料理を作ったり、モンペ(作業ズボン)を自分で作りはいた。当時女性がズボンをはくことはなかったので、奇異な目で見られたが、後年にはこれがあたりまえになった。自転車にも早くからのった。牛で農耕したり、発動機を使ったりした。生花は名人で大胆な創作的ないけかたをした。婦人会の踊りの稽古の時師匠が来れずサヨさんが振り付けをした。センスはこう持ち替えた法が良い、この時こねい離したが良いと色々直された。その通りにすると、とても良くなり成績が一番になった。何をしても抜群で普通の人とは違っていた。
(9)子供のしつけも徹底していた。子供が東京の学校に進み下宿すると、子供は下宿屋の家事洗濯などまでを積極的に手伝った。下宿先は傷痍退職軍人で学生であり妻は6人も小さい子供を抱え大変だったためである。戦争で物資不足になると、米や野菜などを大量に頻繁に送り下宿屋は近所にも配った。
(10)いじめ抜かれた姑(義母)に徹底した親孝行でつくした。晩年認知症になった義母を介護しつくした。外出先などで義母は自分の母を探すように常にサヨさんに甘えていたらしい。この姑は病的な吝嗇家でこの地方でも有名であった。自分の実の娘の嫁入り道具を揃えなかったり、その娘が学校に行くため家に滞在していた時でも菓子を自分だけ食べて孫に与えないという程酷かった。サヨ様は自分が財布を持つようになった時、彼らにタンスを送ったり、いろいろと世話をした。釈尊は成道前6年間、一日一粒しか食べないというような大苦行をした。大神様のこの姑に仕えた行は釈尊の大苦行に相当するのだろう。神様はこの苦行を与える為に、この姑を与えたのだろう。釈尊の時代、宗教で悟りをひらくのに苦行が必須とされていて、皆が苦行に励んでいた。苦行でなく中道(8正道)でないとだめと説くため、釈迦は自ら大苦行を実行されてから説いた。サヨ様は(将来)家庭の行を説くため、この大苦行を神様が実行させた。
(11)子供時代から弱い者いじめが大嫌いで、弱者の味方をして喧嘩することもあったが、絶対に負けなかった。悪さを止めて喧嘩したこともある。農家が切り干し大根をつくるため干してある上を、わざと泥だらけの草履で歩いていた子供に注意して喧嘩するなどした。こういう悪をしていた喧嘩相手はほとんど若死しているそうである。
(12)子供の時は木登りが得意で、椎の実を子供たちが拾っている時、落ちてこないと木に登り枝を揺すって落としてあげた。
(13)13歳の時鳳が3羽空を飛んでいるのが見えた。鳳とは伝説の(霊界の?)生き物である。法連の花も見えた。眼病かと思い3度医者にかかったが、眼病でなかった。13歳から霊視が始まったようだ。
(14)無差別な施しをしなかった。村に乞食がくると、困窮した理由を聞き、不幸なケースだと、良く施しをした。逆に、酒に溺れて怠け者で困窮しているような者には、施しをせず、真面目に働くように諭した。

お釈迦様は教祖になる前は王子であったが、何にでも素早く通達して、学習してもすぐに覚え、全てに渡り抜きん出た万能ぶりを発揮した。また慈悲深く、率先して人々に尽くすという、人間として立派な道を歩んた。(詳しくは河口慧海:釈迦一代記)
(キリストの教祖以前の記録は一つだけ。生まれた直後聖人が礼拝におとずれ、ユダヤの王が生まれたという噂がでた。そのため付近の赤子は王により殺された。キリスト一家は一時エジプトに避難していた。)
大神様の説法でも、「正しい人間の道を踏んでこないものを神様は使わない。」
この一点が偽預言者と本物をはっきり分けるポイントのようだ。ただこれは教祖についてである。信者(同志)は、たとえ罪を重ねた人であっても、反省懺悔をし、教えを実行していけば救われると説き、事実その実例は多くある。