対機説法

仏教のお経は沢山あり、初心者用のものから、上級者用のものまで様々だ。内容的にも表面的には矛盾した教えが入ったものもある。これは釈尊が、相手を見て相手に合わせて説法したものがお経になったためだ。これを対機説法という。
天照皇大神宮教でも大神様は、相手に合わせて説法したり、個人指導したりしている。説法を聞いていた人達が、自分のことばかり言われていると感じたことも度々だった。常に変わらない基本部分と、相手や聴衆のレベルに合わせて噛み砕かれて話す部分がある。山に登る人でも、北側から登り始めたばかりの人もいれば、南から頂上近くまできて登っている人もいる。はじめはなだらかな東側から、途中は南から、最後はまた東の絶壁からという人もいる。この登り道と登り方を教えられたのが各種説法と、個人指導である。そのため表面的には、相手と場面、状況により、矛盾して見える指導もしている。融通無碍でないといけないともいい、針の先程も曲げてはいけない、肚を崩してはいけないとも説いた。
例えば現職(会社)の都合を優先するか、行事(教団)の予定を優先するかという場面でも、ある人、ある時には現職を優先するように指導(例:会社を強引に休んでご奉仕している人に、縁の下でクワを振るうようなことはするな。現職に努め、醵金をするようにして、うまく社会を渡れ)、ある人、ある時には、そんな会社など辞めてしまえと指導した。また親は子供を可愛がれと指導もしたし、場合によっては捨て切れとも指導した。これらは神言を表面的に聞いて、機械的に適応するだけでは不十分なことを示している。
基本の常に変わらない部分を見る必要がある。仏教では「常に悪をなすなかれ。常に善をなせ」「仏に帰依せよ」などがある。
天照皇大神宮教では、常に反省を忘れず心の掃除をする、世界平和の祈りをする、家族に真心から尽くす、人に迷惑をかけない。全てに感謝を忘れず、物を大切にする。口、心、行いの一致。日常生活を「行」ととらえ神行を実行する。生計を立て自活する。(現職と神行を両立させる)。これらは常に不変である。神国大事の肚を作る、同志間の物のやり取りと金の貸し借りの禁止、化粧の禁止、悪をなさず、善をなすという人の道を踏む、これも変わらない。
人によって指導が違うのは、ひとそれぞれ事情が異なる(因縁が違う、環境が違う、才能や好みが違う、、、)為、神に行く近道が異なる為である。様々の人間に神はどう指導し、人間の同志どうしはどう対処していくべきかを次のように説いた。
「神様は人間に拾いどころさえありゃ拾うていく。人間にどこかええ所がありゃ、それを見て取るのが神様よ。皆は一所悪いというても、それで放り出そうとするが、人間というものは、一所悪いというてもどこかええ所がありゃ、それを見出して育てていかにゃ本当は取る者はおらんよ。八百万の神とは人間なのよとは言うが、神様の仲間入りができて、立派な人生を歩むことができる者はおらんけど、皆のいいところを見出しちゃ、悪いところを直しちゃ、ええところを見出しちゃ、悪いところを直しちゃ育てていくのがわしの肚の神よ。それじゃけえ、人を神教の鎖で縛り上げるようなことをして、手も足も出んようにする者がおるが、それじゃいけん。心の余裕を持たにゃいけん。神行するというても、ここらの人もおりゃ、まだまだ曲がりくねって逃げた者もおる。自分はこりゃこうと思うても、それらを一遍に同じ板に貼るように思うたら違うんよ。皆を神教で責める前に自分がどれだけ神教の実行ができておるかということを考えるようになれ。」
神の同じ教えでも人間側では人により受取り方は様々になる。例えば「やる肚作ればやれる神様つけてやる。」ある小学生は友達と遊んでいて、いい格好をしてしまい、引っ込みがつかなくなり、高いところから飛び降りるはめになってしまった。いざ飛び降りようとすると高くて怖い。その時心に浮かんだ言葉が、「やる肚作ればやれる神様つけてやる。」そして飛び降りたが怪我をしなかった。このレベルのものもある。キリストはこの種のことを戒めて「神を試みてはならない」といった。
この神言が良く引用されるのが教団行事に参加する時である。現実に職業と家庭を持てば時間的体力的に手一杯になり、それに加えて教団行事に参加するのはかなり困難なことが多いと想像される。職場でも模範的に仕事し、研究すればそれだけで手一杯になるのが普通である。これらすべてをやり遂げるには、尋常ならざる決意と努力と精神と体力の持続が必要で、それを「やる肚作ればやれる神様つけてやる。」と鼓舞したようだ。かって昔には、国救い舞とはてんてこ舞い(忙しく働く)することだといわれた。事実レベルの高い人は(神様に支えられ)疲れを知らないように見える。
やる肚を作り、心の掃除を続け、伝道などの神国建設の徳を積み続けてきたとすると、神様は近く近くその人のそばに存在するようになる。その人は神の実在を意識できる。神人合一とまではいかなくてもそれに近づく。これを「やる肚作ればやれる神様つけてやる、行く肚つくればいける神様つけてやる。」と言われ、文字どおり神様が付きそれを実感できる。裸一貫、神さえあれば良い。と決心が付き実行に移ると、すべてが上手く行きだす。(河口慧海は仏さえあれば、命も名誉も地位もいらないと、仏教の正しいお経を人々のために求め命がけのヒマラヤ越えをして、チベット入国をした。これが同じレベル。法華経には、この経典のため命をかけた人間には飢死・凍死させないという仏の約束があり、これが慧海に実現した。「やれる神様つけてやる」に相当している)このレベルは我々には高すぎる。そのため、ある説法では、初め「やる肚作ればやれる神様つけてやる。」と言ったがこれを皆が実行できないから、今は「心の掃除をして人に迷惑をかけないようにする。そして正しいお祈りをする」これが神行の真髄と説かれた。
ところで肚とはなんだろうか?大神様に絶対神が降臨した時、「口と頭と体と心を神に貸せ。」といわれ「全部じゃないか」というと「肚だけはお前のものだ」といわれたらしい。自由意志は神が人間すべてに保証したものである。ただ因縁が絡まった蔦のようにその自由な発動を妨げる。肚とは意思でありその外での現れは実行であるということではないだろうか。仏教でいう発菩提心というのが、「肚を作る」に一番ふさわしい表現だと思う。この決心は「神教に従い、神に近づこう。」という正しい方向を向いた決心であるからだ。何が何でも神様についていこうという決意であり覚悟であると言える。日常生活出でてくる様々な葛藤・困難を自我・自己愛を取るための向上の糧、「行」ととらえ、日々精進「行ずる」。この覚悟と実行を「肚を作る」という。
(注)同志間での物のやり取り禁止の大原則の一方、真心を尽くせというご指導もある。よく知っている長い付き合いのあった同志が困窮している時、そっと助けるのは真心で、これもなくすと冷たい神の国になってしまうと注意された。
(注)神行と現職の関係をわかりやすく説いた一例。「運は天にあり。ぼたもちは棚にある」
神の国のために尽くすと天運が向いてくる。すると神様は棚にぼたもちを入れてくれる。人間が立って棚をあけるとぼたもちがある。現職にすごい幸運が舞い込むという意味。