苦行と楽行

釈尊は、仏道は苦行でもだめ、楽行でもだめ、中道でないといけないと説いた。
苦行とは、肉体を苛める行為で、食べない、飲まない、水に浸かる、寒くても着ない、暑くても我慢する、石の上に何日も座るなど様々な行為をさす。
楽行とは、肉体の欲望のままに生きることをいう。やりたいようにし、したいようにするという事を宗教信条として実行することをさす。これは悪魔教である。悪魔の教えとは「古くさい道徳などにとらわれず、自分のしたいように、やりたいように、自由に生きよ」という教示に尽きるようで、これを徹底していくと究極の利己主義で、自分だけが生きていて、他人の迷惑などおかまいなし、他人の存在すら考えなくなり、犯罪者になったり、人格崩壊して、気違いにまでなる例がある。生きていて地獄。死んで地獄という分かりやすい道でもある。悪の霊能者がたどりつくのはこの辺が多そうだ。
中道とは、人間として正しい道徳に従った生き方、正しい考え方、正しい行動、正しい發言、正しい職業をし、正しい仏(神)に祈っていくことを指す。8正道という。正しい考え方とは、因縁因果が常になにごとにも実現され、自業自得になっていると常に反省することである。ここから悪いことをすると、必ず自分の不幸になって帰ってくる、良いことをすると、必ず自分の幸福に帰ってくることがわかり、自分の行動すべてが整い、心が落ち着いてくる。
天照皇大神宮教でも大神様の教えは全く同じである。真人間になることが教えの基本であり、真人間とは8正道の生き方をすることである。「寒けりゃ着い。温うなったら脱げ。ひもじゅうなったら食べい。みんな今までその反対をやるのが信仰と思ってきたが、違う。」「水をかぶるのが神行ではない」というように苦行を否定している。人間として、まっとうな、正しい、天に恥じない生き方、行為、發言、思いをしていくことが大切で、それができない自分の内なる原因(悪癖)を、日々内省して反省して、正していく、日々正しい祈りをしていくのが神教えと説いた。また、我をつのらせ、したいようにすればするほど、行き詰まり、地獄の釜こがりになって、苦しむと説き、(楽行はだめと)戒めた。(地獄は火と煙がたちこめ、そこで苦しむのは、焦がされているように見えることから、釜焦がしという。キリスト教の聖書の表現と似ている)結婚(結魂)でも、因縁が大切で、因縁の無い者同士だと、ろくな子供しかできず、すぐ離婚したりして、不幸の拡大生産になってしまう。自分と相手の因縁が合う結婚をして前世までの因縁の借金を今生で払いきると、神行しやすくなるとして、指導した。(因縁が見えるのは大神様だけである。しかし魂を磨けば誰でも因縁は感応でわかると言われた)。恋愛は、「(発情期の)猫が浮かれて追い歩くのと同じ」(天声30号P9)と切り捨て、恋愛をしないように指導注意した。好いた、好かれたを清めよと説いた。
(注)「道徳などにとらわれず、自分のしたいように、やりたいように、自己主張することが良い。」という論調が現代に蔓延している。悪魔の教えが何故蔓延したのだろうか?(人の迷惑にならないようにする。というのが正しい)
無神論唯物論をベースとするマルクス主義(いわゆる左翼)が教育界、マスコミ、労組に浸透しているため。河口慧海共産主義批判をしているように、平等のみに偏した、神の摂理因果律)を無視した教義は社会に荒廃をもたらす。http://d.hatena.ne.jp/Newshirogarasu/20090429/
無神論唯物論マルクス主義などは、スウェーデンボルグのいう誤謬であり、躓きの石である。自由自体は神様が人間に保証した能力である。この能力は人間が反省して自分を改良していくために保証されている。その能力を悪用させ、道徳的破滅に誘う悪魔の教義が、したいようにせよ、というものだ。
(注)大神様はストが大嫌いで、労使は共に仲良くお互いの利益と立場を思い合って、協力して働くのが良いと指導した。ただ、わしの肚は共産党員を嫌ってはいない、とも言っている。社会党の労組委員長で市議会議員までした人が、後に天照皇大神宮教に入り、熱心に布教を始めて周囲が驚いたこともある。
(注)釈尊自身は大苦行を実践している。米と麻の実を一日一粒ずつしか食べないで6年頑張った。 死なないのが不思議であるが、仏様だから死なない。その後、苦行をしても悟りは得られないと説いた。
大神様も大苦行の連続で、人間でできることを遠く離れたことが多い。(神様だからやれた。)しかし、みなは自分のような苦行(例えば厳冬期でも日に10度水をかぶる、3度水をかぶる、深夜の神社参拝、暗夜での山登り、一日一杯のおかゆで途中水も飲まず説き続ける、6時間正座したまま祈り続ける、これらを何年も何十日も続けるなどの苦行)をする必要はないと説いた。(正座したまま祈り続ける行を弟子にさせたことはある。)
(参考)天声24号の井上須子さんの体験談に人間が食べなくても生きられた例が出ている。
突然昭和22年7月26日より腹が激しく痛みだし、以後38日間昏睡状態になり、その後7ヶ月間も私には全然記憶がなく、庄原病院長より、精神分裂病との診断を受けたそうです。以後少しずつ意識が正常化し、流動食を少し食べても激しい腹痛を起こし七転八倒の苦しみであり、そのため1日1回野菜汁を極少量とり、3年間に少しずつ量を増しましたが、その間、米、お粥、魚肉類は全然食べずにいました。しかし見苦しいほどやせ衰えることはなく、医師も世間の人も不思議がっていました。
(注)天照皇大神宮教では「とても不可能に見える作業」を徹夜徹夜の不眠不休で完璧・完全に達成させた事例が多数ある。最初は大神様の指導で行われ、後には若神様の「神教は痛烈なる実行によってのみ理解・体験され、精神修練も可能なのである」という神念によると考えられる。
(注)大神様は「眠たければ寝ればいい」とは説法で一度もいっていないそうである。(仏教でも睡眠は悪と説かれた教義はある。これは心の眼が眠ってはいけないと理解されてきた。)大神様は文字通り睡眠をほとんど取らないようだ。不眠不休で頑張る、それが続けられることが大神様の大きな不思議であり、他の人間なら3日ともたないと言われたこともある。(5分寝れば楽になる。と言っていた。文字道理、日毎夜毎に進みゆく)。日に3度の説法(多いと延10時間)合間に押し寄せる人々への個人相談(ちょっとでも触ってもらえば、難病も治るというから、皆は必死で押しかける)夜中もお祈りにつぐお祈り(救われようと幽霊が押しかけてくる。世界中の信者の苦境などが神眼で見えるとお祈りしてあげる。神様が祈れという。)自分の身の回りの家事洗濯、場合によっては農作業、家庭でのお婆さんとして家族に尽くす役割を果たし、多く来る手紙の返事を書く。信者への多くの個人指導と個人相談。各地への布教の移動。(常に3等車利用)。。どう見ても考えても”人間の肉体限界”を超えた日常ばかりである。ただ、普通の人にはギシギシして開けるのが困難な戸でも、大神様だと”ひとりでに”開くようだったそうで、我々の頭で考えられることではない。「わしの体が石や金ででもできていると思っているのじゃろうが、同じ人間なんで。」というように大神様は肉体は普通の人間(北村サヨ)であるとしばしば強調している。同志は自分の踏んだ人間の道を模範にして生きよという教えである。血圧230,歩くのが困難なほどに弱り切った晩年に、9ヶ月、36カ国、インド各地、中東、ヨーロッパ、アフリカ、南米、中米、アメリカ各地、ハワイ各島を強行につぐ強行で布教して回った時、昔なじみの同志に、「こんな体なのに、肚(神様)がやれという」と涙をこぼして言ったそうだ。天照皇大神宮教で一番の不思議は大神様である。