神様と生き神様

神様と生き神様は同じようではあるが、微妙な点では食い違いがある。一言でいえば、神様は情け容赦がないが、生き神様には”人の情け”人情があるということだ。神様には絶対の慈悲があるが、同時に絶対の正義の裁きということも兼ね備えている。そこで人間には普通、ある距離以上、神に近づきすぎると死んでしまうということが起こる。「神は大慈悲。神ほど恐ろしいものはない。」
神社でも眞の聖域には、手順を踏んだ特定の神官しかはいれない。キリスト教でも、旧約聖書では、モーゼしか入れない所があったし、幕屋の内部も、最奥には手順を踏んだ特定の神官しかはいれない。それを破ると天罰が下る。旧約聖書の神は怒れる神、罰する神の記述で満ちている。この本当の真意はスウェーデンボルグを読めばよくわかる。単純に言えば、悪人には罰する神しか見えないが、善人には慈悲の神が見えるということだ。この神は同じ神である。
仏教では、釈迦如来が神様であった。キリスト教ではキリストやモーゼが、神様(エホバ)と人間を仲介(結ぶ)した。天照皇大神宮教では大神様(北村サヨ)が仲介した。釈迦如来、キリスト、モーゼ、大神様いずれも生存時には生き神様として周囲には現れた。生き神様は中に神様がいて、それをオブラートのように肉体で包み、オブラートのように人情を包んで、神様が周囲の人間を指導できるようにしている。神様直接では、完成された大聖人以外、受け従い続けるのは無理である。神様から見て欠点の残った人間が近づき過ぎるのは、ある意味許されないことであり、罰が伴わざるを得ない。それを、生き神様は許す。その仲裁というのは、我々の想像を絶するものらしい。ほとんど寝ずに祈り続けるというようなものらしい。大神様は胆の神様が周囲の人間に注意することの7,8割を言わずに忍んだらしい。すべて伝えると、付いて来れない為である。
(例1)末次平蔵さんは大神様のお供で東京に行った。ある朝寝坊した。大神様は苦しまれており、朝食を食べることもできない状態であった。神のお供が朝寝坊し、宿舎の家族一家のお祈りに参加できなかったことを、肚の神様が怒っていると言われた。末次さんは反省し、朝食後すぐに街頭で伝道活動をした。大神様の体は少し楽になったようだが、その日は結局食事できなかった。
(例2)石原澄江さんは大神様の2カ年のアメリカ巡教のお供に指名されてついていった。ロサンゼルスで、ちょっとしたことで腹を立て、出ていこうとした。別のお供崎山さんが長時間説得して、無理に連れ帰ると、大神様は必死でお祈りされていたが、全身こわばり、声も出ていなかった。2人でお祈りすると大神様に声が出た。「肚の神が怒り澄江を3年体が動かないようにしてやる。と言ったので、『澄江を連れて来たのは自分だから、全責任は自分にある。体を動かせないようにするのはおサヨにせい』と言ったらすぐに全身がしびれてこうなった。」と言われた。皆でマッサージしたが手の先までこわばっていた。これが回復するには7−10日もかかった。
この人間(神的人間)によるオブラートを経て、神様の声と導きが宗教を創る。
神様は人間の行為の集積に対し、恩恵を与えたり、罰を与えたりする。罰が典型的によく分かるケースもある。
仏教:釈迦如来が外道の教師に7日以内に水をつまらせて死ぬと予言。ーーそのとうりになる。
釈迦族を殺した王に対し、7日以内の死を予告して、実現。など仏典の所々にこの種の記述はある。
ミラレッパなどの聖人に害をなした人物も仏罰としての死が起こっている。
河口慧海チベット旅行を直後にひどく歪曲中傷した幸徳秋水は後に別の事件で死刑になった。
これらは、人々の救済の邪魔をした人間には天罰が下ることをしめしている。

天照皇大神宮教では最近のことでもあり、もっとはっきりした事例が多数伝えられている。
公共の場で布教活動を妨害した人間に対し、大神様が期限を切って(3日とか7日とか2ヶ月とか様々らしい)死の予言を多数の人々の前ですると、船が沈んだりとかの不慮の事故がその期限内にその人間に起こり死亡するということがかなりの数あったようだ。その死んだ人の同僚が怖くなってお参りしたこともあったようだ。また神行(信仰)の妨害をする企業は倒産したりもした。
天変地変の鍵をもち、人の生死、禍福ももし望むなら、思いのままだったように見える。ただ、それは神様の望むままに何事も起きるということを我々にわかりやすく示すためのようだ。