砂漠の導師

法華経旧約聖書とウリふたつの話がある。
法華経過去行章7:仏は弟子を連れて砂漠の道を進む。弟子達は辛さに負けて仏に付いて来たことを後悔し始める。仏は弟子達が落ちこぼれないように、神通力でオアシスの街を化現して弟子達を休ませる。十分回復したのを見て、神通力を納めて元の砂漠に戻す。もうゴールは近いから頑張れと励ます。仏の導きとはこんなものだ。
モーゼはイスラエルの民を率いてエジプトから脱出する。シナイ砂漠に入り、イスラエルの民は不平を言い出す。「エジプトにいた時はもっといい生活をしていたのに。」そこでモーゼは休ませて、天からマナを降らせ、鶉を舞い降りさせて民を養った。岩を杖で打ち水を出して養った。
天照皇大神宮教を学ぶとこの記事の真意がわかる。大神様は、見込みのある人を以下のステップを踏んで導いたケースがあった。
(1)最初神様はその人を十分に高い高いをする。神教に本気で入らせる。事業をうまくいかせたりする。人によっては神通力を経験させ霊を見せたり、予知能力を与えたりする。別のケースでは、医学がさじを投げた病気や怪我、先天性疾患などを治してあげたり、神の口をつけたりする。毎日が嬉しく楽しい、生きとし生けるもの全てが味方する、地上天国を体験する。
(2)その人が十分に神様がわかり本気で全人生をかけて神教実行をするようになる。あの人は文句なく模範的で、よくやっていると自他共に認めるようになる。
(3)その人を大勢の前で叱ったり、除名処分(この行為は教団の規則違反ということを確立させるため)にしたり、また別の試練を与えたりする。事業が不振になり破産寸前になったり、夫に愛人ができたり、義父母にいじめられたり、さらに自分や家族が病気になり泣きっらに蜂、「神にハイハイで言われるままに全力で尽くし付いてきて、結局こんな惨めな境遇に落ちた。神様にだまされた」と恨むようにまでなる。すると大神様は「もう知らん」と取り合ってくれなくなる。神を慕う人にのみ神は救いの手を伸ばす。神を恨む人間に手を伸ばせない。ここで落ちるとそれまで。しかし、これは自分の行だ、まだ真心が足りないと、自分の隠れた利己心に気づき反省し立ち上がると、神は再び救いの手を伸ばす。神国大事の肚が出来る。このプロセスでその人の自負心や隠れた誇りのような、自我の根を切り、陰徳を積むことで前世の借金払いを気づかない内に済ませ、因縁を切ることができている。
(4)試練に落とし、叱る大神様は実に人間としては辛い。涙をこぼしながら叱る。例えば17年も休まず、少数の同志しかいなかった教団時代からずっと、手弁当、無料奉仕で、朝から夜遅くまで教団事務の裏方や伝道などを誠心誠意やってくれてきた人や、その人を支えてきた人を叱り、教団役職(無料奉仕)を辞めさせた。「白梅会」という勉強会を作り盛大に伝道しようとした人は除名された。この大ショック(心労で20KGもやせたり、死んだほうがマシと思いつめたりする人もいた)を経て、その人達は実に大きな飛躍をしている。完成した人格になったようだ。そうなることが見えている人だけを叱ったのだろうし、後からのフォロー(指導や大神様死亡後までもの生活援助などをしかるべき人々に頼んでおくなど)もちゃんとやっている。除名も取り消した。蹴落とすのではなく、蹴り上げる。神様だからできることである。人間がやってできるレベルの指導ではない。「役座は、殴られても蹴飛ばされてもついてくる人のみを連れて天国を作る」と良く説法している。役座とは、神様のいうとうり動く神役者(八百万の神:聖人)の座長である大神様という意味。典型例:天声98号P58で中山氏に叱る予告とその意義を説明、1年半後、実際に叱っている説法が天声116号に掲載。193号に悪癖を直すことの難しさと叱られた意義の回顧が載せられている。生書初版は紀元6年に作られたが、中山氏はその中(初版P505,生書1巻P615)で自分の悪癖を直そうと決意していることが書かれている。頭では12分に分かっていたが、実際に直せたのは、その12年後の大叱りのご説法とその後の一連のご指導によってであった。
大神様は「船で沖にでた。もう嫌でも戻れない。海に飛び込めば鱶(サメ)に食われる。そこで神様はガツーンとやる。」と説法した。このプロセスを意識して、天声の体験談を読むと気づくことが多い。試練から精神的に抜け切れていない段階で書いた記事には「なんて神行は厳しく、割に合わないものだろう。」と暗い気持ちがただよっている。同じ人でも、試練を克服した後の記事には大神様への感謝が溢れ、具体的な行の過程が示された「神教の生き証人」の記録になっている。「神教がこうして天使を作った」ということが良く分かる。