後光が見える人、見えない人

同じ人や物を見ても後光が見えた人と見えなかった人がいる。
玄奘大唐西域記にも記述がある。
アフガニスタンの洞窟で昔は仏が浮き出て見えたという名所があったが、玄奘が訪ねた頃には見えなくなっており、訪れる人もいなくなっていた。玄奘は是非行きたいと、近くの村人数人に案内を頼んだ。途中で彼らは強盗になったが、説教されて悔い改めた。洞窟についたが、暗闇しかなかった。玄奘が懸命のお祈りを上げると、奥の壁が光りだし、やがて仏と大弟子が浮かび上がってきた。玄奘の喜びは大きかった。同行の村人もそれを見たが、一人だけは、何も見えなかった。
見えなかった人は悪人で懺悔ができなかった人であろう。
同じことが、天照皇大神宮教では度々起きているようだ。大神様(北村サヨ)を一目見て、後光がさしているので神様とすぐに分かり、信者(同志)になった大勢の人がいる。その時、後光を見なかった人は圧倒的に多い。後光が見えた人は霊の目が開きかけていた人たちであり、それだけ真剣に信じ行じることで、聖人の域に達した人が多い。また、大神様の写真や夢で後光を見た人々もかなりいる。一番極端な例では、大神様の死の前日の説法(昭和42年12月27日)である。54日間も大神様は食事を取ろうとはせず、肉体は完全に”枯れて”、顔は全く変化しないが、立つことも歩くことも、椅子に座り続けることも困難なほど、体力は衰えていた。ただ説法だけは行った。崩れ落ちそうな体、意識が途切れそうな説法に、信者たちは悲しみハラハラして聞いていた。唯一、イギリスから来ていたウースター夫人は、そのような大神様を見なかった。彼女が見たのは、沢山の大きな剣のような光の後光に包まれた神様を見ていた。紀元22年(昭和42年)12月24日の山口県協少年少女修練会に出ていた少女の一人も弱りきられた大神様のご説法時眩しい金色の後光に包まれた大神様を見ている。
ピアス女史(博士)は大道場では常に大神様の後光は大きく、小道場では頭上に小さく見えた、と書いている。ウースター夫人は大神様の後光を見ていたが、特に昇天前の3日間のご説法中、大神様の後光は全身を覆い、頭が光で見えなくなる程だった、この光の強まりがご昇天のサインだったことにはその時気づかなかった。と書いている。ピアスは日本語を全く知らないのに、大神様の日本語でしゃべるのを理解でき、ピアスが話す英語を大神様が理解し、会話に通訳なしで不自由しなかったと語っている。(天声312号)外人同志にいかにハイレベルな人が多いかを示す逸話であろう。
大神様の顔は昭和20年頃から光り輝いていたようで、何人もの人がそれで神様と直感している。お釈迦様の顔も光り輝いていたようで、お経でもそれを見て噂の大沙門が此の人だと気づいたことが記されている。(例えばマーリカ)仏画キリスト教の宗教画でも仏・キリストには後光が描かれているし、像にも後光が付けられているのが多い。